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エドモンド・ハレー ( Edond Halley 又は Edmunnd Halley 1656 - 1742イギリス)

エドモンド・ハレーはHaggerston of Londonの裕福な石鹸製造業者の家庭に生まれる。 St Paul’s Schoolに学び、1673年にthe Queen’s College Oxfordに入学する。 卒業後、1676年に南半球の恒星を観察するために大西洋に浮かぶ孤島、St.Helenaに2年間滞在する。 Tycho Brahe( 1546 – 1601 デンマークの天文学者 )の星座標に、新しく341の恒星を書き加え、1679年にCatalogus Stellarum Australiumとして刊行する。 エドモンド・ハレーはRoyal Societyの会員に選ばれる。 
余談になりますが、イギリス領St.Helena島、当時は絶海の孤島で、大西洋、西アフリカ沖合い2000キロにあり、ワーテルローの戦( the Battle of Waterloo )いで破れたナポレオン( the Emperor Napoleon Bonaperte)が1815年流刑され、亡くなった島として知られている。 

1686年に、南大西洋の航海時に観測したデータをもとに、貿易風( trade winds )とモンスーン ( monnsoons )について、また気圧( barometric pressure )と海抜 ( height above sea level )の関係についても論文を発表している。  天文学者であったエドモンド・ハレーは、人生の多くを月の観測に費やし、重力、惑星の動き、特にKepler’slawsの仮説の証明に注力し、1684年に友人のIsaac Newtonに会うためCambridge大学を訪ね議論をする。 

Isaac Newtonは、既にKepler’slawsの仮説を数学的に証明済みで、その事を知ったエドモンド・ハレーは世に問うことを進言し、後に1687年に後世に残り、多大な影響を与える「 the Principia Mathematica Phirosophiae Naturalis 」を刊行する。 それに掛かる費用はエドモンド・ハレーが援助した。

 1698年から、Paramore号の艦長として、北緯52度から南緯52度の大西洋海域の地球磁場( terrestrial magnetism )を測定し、「 General Chart of the Variation of the Compass 」として著らわす。 そこで、地球磁場の北と地軸の北の間に傾き(偏角)の有る事を確認する。 この傾きをisogonicまたは Halleyan linesと呼称されている。 地球磁場は現在でも研究課題であるが、概ね、地球内部のマントルの対流に起因する電流(電子)の流れと地球の自転により磁場が発生していると考えるマントル対流(ダイナモ)説が支持されてるいる。 

また25000年ごとに北をさすN極と南をさすS極が反転することなど理解できないこと等も多々ある。 また、この狭い日本の国土でもHalleyan lines(偏角)は、北の北海道では10度、南の九州で6度と差がある。 現在、地球表面積の29%を占める5大陸も、海と陸地が作られた頃は現在我々が見る世界地図とは大きくことなり、マントルの対流により陸地が移動して現在のような形状および配置となっている。 ウエーゲナー( Alfred Wegener 1880 – 1930 )が唱えたプレート・テクニクス(大陸移動説)である。 実際、世界地図の南アメリカの東側とアフリカの西側をはさみで切り合わせるとほぼ同じ形状で当てはまる。 山口県の秋吉台のカルスト大地も珊瑚礁で、遠くフィリピンの方から移動してきたものと思われます。

 1703年に、エドモンド・ハレーはOxford 大学の地理学の第4代サビリア教授となる。 サビリア教授( Savilian professor )のサビリアとは、1619年にOxford 大学のSir Henry Savile ( 1549 – 1622 )が地理学( Geometry )と天文学( Astronomy )に限って設立したもので、その席についた地理学の初代は、Hnery Briggsで、天文学の初代は、John Bainbridgeで現在もその歴史は守られている。 また数学にも同じような席としてグレゴリ教授なるものがあり、1659年にEdinburgh 大学のDavid Gregory ( 1638 – 1675 )が設立した。

 最後に、エドモンド・ハレーの名を後世に残したのは、ハレー彗星を発見した事である。 エドモンド・ハレーは歴史書から、1456、1531、1607と1682年に現れた尾を引く星(彗星)が同じ彗星ではないかと考え、周期を計算し、今度地球に接近するのは1758年としましたがエドモンド・ハレー自身は1742年に亡くなっているので残念ながら見る事は出来ませんでしたが、実際に予言通り1758年に現れました。 ハレー彗星は太陽系の惑星以外で、固定周期を持って迂回してくる彗星(planet)の事で、周期は76年とされている。 

私の家でも 1986年に見ましたが、地球への接近度が僅かでしたので、天空に燦然と輝く尾を引くハレー彗星を期待し、望遠鏡まで用意して待っていたのですが、小さく輝きもなく大変残念でした。 また、史実を記した歴史書に見られるハレー彗星の周期は、摂動( 太陽また惑星の重力の影響により周期が変動する )により75 - 79年ですが、240年から紀元後1696年までは22回現れ平均77.1年です。

 その後、私たちが見た1986年までは7回現れ平均75.6年で、2134年に現れるまでは73年とされ、段々迂回周期が短くなるような気がします。 実際、長い期間、ハレー彗星は星屑を撒き散らしているのでいつかは無くなるのでしょうが、天文の事に無学な私が心配する事ではないかとは思いますが?
 
エドモンド・ハレーは1742年に亡くなり、ロンドンの南西St. Margaret’s Church に埋葬されている。

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