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チイコ・ブラーエ ( Tycho Brahe 1546 – 1601 デンマーク )

チイコ・ブラーエは現在のスウエーデン( 1658年迄はデンマーク領 )、スカンデイナヴィア半島の南端のスコーネ( Skane )の高貴な家柄に生まれる。 中世デンマークはカルマル同盟( 現在の漁港:スウエーデンのKalmar slottで1397年に締結された )のもと、デンマーク、スウエーデンおよびノルウエーが共同体で大国として存在していたが、1523年にスウエーデンがこのカルマル同盟を離脱し、スウエーデンとの300年に亘る抗争が続いた時代背景の中であった。 現在のデンマークの首都コペンハーゲン( Copenhagen )はシュラン島( Sjaelland Island )に位置しますが、思い出されるのは8 - 11世紀に活躍したヴァイキング( Viking : 北の人 )と文豪シェクスピア( William Shakespeare )の著作ハムレット( Hamlet )の舞台となったエルシノア ( Elsinore )城( クロンボー城Kronborg Slot がモデルとされる)があることでも知られています。

チイコ・ブラーエは9歳でラテン語を学び、1959年、13歳でCopenhagen大学に入学し伯父の勧めもあり、法学および哲学を専攻し法律家になるべく勉強をする。 チイコ・ブラーエは大学で、いろいろと広く学ぶ内に、錬金術また天文学に興味を抱くようになる。 この時、チイコ・ブラーエの将来の方向を決定付ける出来事、太陽の部分日食( a partial eclipse of the sun )が1560年8月21日に起きる。 またこの部分日食はこの日に起きることが予測されており、それが実際に起きた事は、果敢な年頃のチイコ・ブラーエにとっては衝撃的で、これで天文学への道を選ぶ事になる。 チイコ・ブラーエはお金には不自由が無かった事、またラテン語を学んでいた事も幸いし、直ちにプトレマイオス著作の「アルマゲスト」Ptolemy’s Almagest(ラテン語で書かれた書物 Megale Syntaxis )を買い求める。 

Almagestには、惑星の年運行の暦( astronomical tables )が掲載されており、それはスペインのトレド( Toledo : Madridの南70km )で1252年にCastile( スペイン中央部 )の王でありまた天文学者のAlfonso X ( 1221 – 1284 )の元に50人にも及ぶ天文学者が集まり作製されたもので、Alfonsine tablesと呼ばれたいた。 Alfonso Xはヨーロッパ・キリスト教国にギリシャおよび東方オリエントから流れ込む膨大な学問書のラテン語への翻訳を専門に行う学校を設立した事でも知られる。 またチイコ・ブラーエは同時にコペルニクスの理論( Copernicus’theory )に基づいた最新の惑星の年運行の暦も買い求めた。

チイコ・ブラーエが生きた16世紀から17世紀の天文学者は大雑把に列記すると、
 Nicolaus Copernicus 1473 – 1543
Tycho Brahe 1546 – 1601
Galileo Galilei 1564 – 1642
Johannes Kepler 1571 – 1630
Jeremiah Horrocks 1619 – 1641
Sir Isaac Newton 1642 – 1727
 Edmond Halley 1656 – 1742

その後、ドイツ各地を旅し、さらにWittenberg、Rostock、Basel大学で学ぶ。 チイコ・ブラーエが20歳、ドイツのRostock大学で学んでいた頃、1566年に大学の教授の家でのクリスマスのパーテイで酒に酔い、学友のManderup Parsbjergとの口論の末、鼻の一部をだんびら( 広幅の刀:braoadswords )で削ぎ落とされ、生涯、その部分に銅製の義鼻を嵌めていた。 

チイコ・ブラーエは1570年にデンマークに戻り、1572年にカシオペア星団( the constellation Casisiopeia )に非常に明るい星を観測する。 この星は、他の星と違い幾晩、観測していても視差が変らないことから、かなり遠い所に位置する星であると推測する。 翌年に、この新しい星( new star )を小雑誌に( De Stella Nova )として刊行される。 現在ではSN 1572の名を持つ超新星( supernova )として登録されている。 この1572年の超新星の発見と1577年の彗星( 地球、月、惑星は時計周り、東から西に運行しているが)の逆行現象と強固と思われていた天球を通り過ぎて行く運行の発見が、チイコ・ブラーエに生涯、天文学者として生きていく確固とした信念を抱かせた。 

これ等を記述したDe Stella Novaを読んだデンマーク王( the King Frederick II )は、チイコ・ブラーエに、バルト海から北海に抜けるシュラン島とスカンデイナヴィア半島に挟まれた狭いカテガット海峡( the Kattegat strait またはsound ) に浮かぶ ヘブン( Hven )島を贈られ、その地にチイコ・ブラーエ自身が設計した天文観測所および実験室( Uranienborg : the Castle of the Heavens )をドイツの建築家が建設する。 天体観測用の測定器も、それに伴う度盛りも自身で行った。 チイコ・ブラーエは「観測は正確を期さないといけない」という信念のもと、まだ望遠鏡( telescope : ガリレオは望遠鏡での観測 )が無い時代で、肉眼では不可能と思われる微小視差で測定し、それは勤勉と忍耐のいる迂路であった。 

その後、デンマーク王は( the King Christian IV )に代わり、不運にもチイコ・ブラーエとは相性が悪く、測定装置また資料共々、1599年にボヘミアのPrague( 現在のチェコの首都 )に移住する。 幸いにして神聖ローマ法王ルドルフ2世( the Holy Roman Empeeror )の援助を受け、観測は続けられる事になる。 

積年のデータは膨大な量で、これをベースに新しい太陽系の理論を構築したく優秀な助士を探していた折、ケプラー( Johannes Kepler )に出会った。  チイコ・ブラーエは天空で常に位置を移動する惑星と常に天空で位置を変えない不動の恒星「天球に貼りついた」との二分論( dichotomy )の説明がつかず、恒星という天球の中心に地球が位置し、地球の周りを太陽が回り、太陽の周りを惑星、水星( Mercury )、金星( Venus )、火星( Mars )、木星( Jupiter )、土星( Saturn )が回っているという宇宙論を提唱し17世紀前半は受け入れられていた。  チイコ・ブラーエの宇宙論はAristotelian physics systemと1543年にCopernicusの提唱した太陽中心の惑星理論( the heliocentric planetary system )の折衷案であった。

余談になりますが、私は天文学者ではないので、外野から考えると、これほど天動説と地動説のいずれが正しいかの判断がつかなかったのは、地球には自転に伴う昼夜があり、昼間、惑星を含めた星の観測が出来ない事かと思います。 ほぼ無限の広がりを持つ宇宙の中では、太陽も地球も固定点で、問題はただ太陽と地球のどちらがどちらの周りをを回っているだけの事で、それが問題なのですが、私たちが生活している地球は確かに実感として太陽が地球の周りを回っている印象は否めない。  

しかし、アリスタルコス( BC310 – BC230 Aristarchus は地動説を唱えていた)が考えていたように、問題は取るに足りない質量の地球の周りを、巨大な質量の太陽が回っているか、また巨大な質量の太陽の周りを微々たる質量の地球が回っているかを考えた場合、Newtonの万有引力理論を待つまでも無く判断出来そうですが?  人間はもともと蒙拙く、思索「理性」が感性「感覚」(今、目の前で起きている事実)を越える事が出来ない動物である事は確かである。 地球が丸い球体であることも、感性の枠を越えるもので思索では理解し難い。 なぜなら今、生活している地球の裏側の世界は、人は逆さになっているのかと問われたら、巨視的にはまさしく逆さである。 巨大な地球の質量によりただ引かれているだけで、人は自分の脚で立っているのではないのです。 この事象も、思索が感性( 今、目の前で起きている事実 )を越える事が通俗な我々にはなかなか出来ない。 思索が感性を越えられ、180度の豹変が可能な者が世に言う天才と思われる。

チェコのプラハPrague に居を構えた2年後の1601年、チイコ・ブラーエは志し半ばにして亡くなり、ケプラーはチイコ・ブラーエの25年間のデータを引き継ぎ、後の「惑星の第一、第二、第三の運行法則」を発見することになり、チイコ・ブラーエの観測データは無駄ではなく、大いに貢献するものであった。 チイコ・ブラーエは実に偉大である。 後世の若い人達がケプラーは知っているがチイコ・ブラーエを知らないのは実に残念である。

チイコ・ブラーエの遺作としては以下が知られている。
「 De Nova at Nullius Aevi Memoria Prius Visa Stella : 新星の出現 」in 1573
「 De Mundi Aetherei Recentioribus Phaenomenis : 天界の新現象 」in 1588
「 Astronomiae Instauratae Mechanica : 天文学の観測装置 」in 1598
「 Astronomiae Instauratae Progymnasmata : 天文学入門 」in 1602

チイコ・ブラーエの死因は、毒殺説もあるが、宴会好きで酒による泌尿器官の治療薬に含まれる水銀中毒説とされている。 後にチイコ・ブラーエの髪の毛から水銀が多量に含まれていた事が確認されている。

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