2006年09月01日

シャルル ( Jacques Charles 1746-1823フランス ) 

 シャルルはBeaugency Loiret in Fransu で生まれる。 フランス財務大臣の秘書をしていたが、科学、電気に係わる実験に興味を持ち、幾つかの発明をしている。 独自の液体比重計( hydrometer )、
測角器( goniometer )の開発、またGravesand日光反射器( heliostat )およびFahrenheit
気量計( aerometer )の改良を手掛けている。
 
 中でも1787年に著わされた、後世に「シャルルの法則」で知られる気体の基本法則、一定の圧力下においては、一定重量の気体の体積( V )は絶対温度( T )に比例するとした、V/T=k( 一定値 )「シャルルの法則」である。

 シャルル自身は、実用化学、物理学者で前者の各種装置は若い時に学んだ電気の応用であり、後に述べる空を飛行する気球も「シャルルの法則」と無関係ではない。 シャルル はイギリスの科学者Henry Cavendish( 1731-1810 )が1766年に発見した空気より14倍も軽い水素( hydrogen )についての知見はあった。  水素は、当時、炎のガス ( Flammable air)、フロジストン( phlogiston : 古化学では熱素、燃素 )また水成(性)ガス ( water gas : 戦時下の旧海軍省でも燃料不足補う研究がされていた)等と呼ばれていた。

 Montgolfier兄弟、Joseph Michael(1740-1810)とJacques Èstienne( 1745-1790)が1782年、国王 ルイ16世とMarie Antoinette が見守る中、フランスのAnnoneyで今で言う熱気球(後に、熱気球はthe balloon of Annoneyと呼ばれる)で高度3000feet、距離1.5 milesを飛行する。 シャルル はAiné Robertsと共同で、Montgolfier兄弟のthe balloon of Annoneyを、気密した風船に置き換え、Henry Cavendishが発見した水素を詰め、大空を舞うことを考え、1783年に飛行に成功する。 場所は現在のエッフェル塔( Eiffel Tower )が建つthe Champs de Marsで多くの群集が見守る中で試行された。 群集の一人がこれが何に役立つのかねと尋ねたところ、そこに居合わせた77歳の老人Benjyamin Franklin が優雅に一言、「新しく生まれてきたこの赤ちゃんが何をするかって?」と聞き返したそうです。 Benjyamin Franklinは米国が独立戦争の最中に、フランスに戦争の資金援助のため米国特使(1776-1784在仏)として来仏していた時のことでした。 

 シャルルは1795年に「 the French Académie des Sciences 」の正会員に選出され、また「 the Conser vatoire des Arts et Métiers 」の実験物理学 ( Experimental physics )の教授となる。

2006年08月19日

ダッドリ ( Dud Dudley 1599-1684 イギリス )

  ダッドリは鉄製造の中心地Worcestershireで生まれ、Balliol College Oxfordで学ぶ。 Worcestershireは製鉄に必要な森林地帯でしたが、木材を切りすぎて、山が裸になったようです。 1621年の「Great May Day Flood」では、洪水による被害は甚大でダッドリの工場も全て押し流されたようです。 ダッドリは製鉄に使う燃料を火力を上げるために木材( wood )を木炭( charcoal )にしてから用いていたように、最初は瀝青炭( bituminous coal )を使い、後に石炭( pit coal )を一端コークス( coke ) にしてから用いた最初の開発者でした。 ただWorcestershireには製鉄業の同業者も多く、品質の良い廉価な鉄を製造するダッドリの工場は妬みをかい同業者から壊されたり、債権者から告訴されたりして、一次Londonの刑務所に収監されたりするなど多難な人生のようでした。

 ダッドリは近代製鉄産業を基礎づける担い手の一人でしたが鉄鉱石から現在の鋼( steel )文明の成り立ちに至るまでには多くの先人の創意工夫が必要でした。 ここで、古代における「鉄の歴史」と「鋼の歴史」を区別して述べてみたいと思います。 

 鉄は青銅に比べ、融点が高く、製鋼が難しく古代では隕石 ( meteorites )が用いられ、空から降ってくる金属として( sky metal )と呼ばれていた。 鉄は金銀の数十倍の価値があり大変貴重な物で、紀元前1323年に亡くなった古代エジプト王 ツタン・カーメン( Tutankhamun )の埋蔵品の剣、装飾品として残されている。 歴史に現れる最初の製鋼の技術は現在のトルコ共和国の中部アナトリア ( Anatoria )に紀元前1680-1450年頃に建国された古(新)王国の印欧語族( Indo-European Langauage )のヒッタイト( Hittites )民族とされている。 

 ボアズキョイ( Bogazköy )遺跡の発掘で出土した楔形文書から解読されている。 楔形文書に書かれているアリンナ( arinna )に銑鉄( pig iron )を製造したと思われる鋼炉(炉と煙突だけ)のブルーム ( bloom )炉の遺構が残されており、ブルーム製鋼法( bloomery process )が鉄を作る原点であったと思われています。 この簡単な仕組みの炉で鉄鉱石( mine )から鉱石( ore )を取り出すために、鉄と化学的に結合力の強い酸素、炭素を切り離すために長時間、1000℃以上の高温の維持、そのための空気の吹き込み、また不純物の黄硫、燐他を取り除く事は当時としては大変な技術なり工夫が有ったものと思われます。 

 ヒッツタイト( Hittites )民族はそれらを克服し鉄兵器を作製し強大な鉄国家を築き上げ紀元前1530年頃、メソポタミア( Mesopotamia )の古バビロニア( Babylonia )帝国を滅ぼし、そして当時世界最強の古エジプト王国のラムセスII世( Egyptian pharah RamsesII )とヒッタイト新王国のハッテユシリシュIII世( Hittite King Hattusili III )の命運を掛けた現在のシリア( Syria)中央部で紀元前1285年、歴史に残る壮絶なカデシュの戦い( Battle of Kadesh )で鋼製兵器として使い勝利(引き分け?)したと言われています。 ヒッタイトの製鋼技術は400年間、隠匿され、ヒッタイトの製鋼技術が地中海文明に伝播されるようになったのはヒッタイト王国が滅亡する紀元前1200年頃とされている。

 鉄( iron )は、他の金属と同様に、単体としては地殻( the Earth crust )には存在しておらず、鉄鉱石( iron ore )は自然の状態では、酸素と結合した,特にFe2O3の形の酸化鉄( iron oxide )として産出される。 この鉄鉱石からFe単体を取り出すためには、一旦Fe2O3の鉄と酸素を切り離す必要があり、酸素と化学的に親和力の強い炭素を用いる。 そのために鉄鉱石を砕いた砕石( pellets )を、炉の中で炭素を含む木炭、石炭、コークス等の火力で溶かし酸素を取り除き鉱石( smelting ore )にする過程を精錬(溶鉱)という。 この火力による精錬過程の温度の違いで、概ね炭素の含有量の違う三種類の鉄に分けられる。 

1200℃で「鋳鉄( cast iron )、銑鉄( pig iron )」、炭素の含有量は2.0%以上で硬く強度はあるが脆性で脆い
 1400℃で「鋼( steel )」、炭素の含有量は0.02%から2.0%前後で延性に富みかつ強度も強い
 1500℃以上で「鍛鉄、錬鉄( wrought iron )」炭素の含有量は0.02%以下で延性に富むが強度は弱い。 

1) 「高炉」で「鉄鉱石」から「銑鉄」までにする過程を「製錬工程」という。
 2) 「転炉」で「銑鉄」から「鋼」、「錬鉄」までにする過程を「精錬工程」という。
   「鉄鉱石」から品質の良い「鋼( steel )」の製造までに産業革命からの近代科学のもとでも
   350年の時間が必要で、その解決しなければならない問題は以下のようです。
1) 「鉄鉱石」を溶かすための「燃料」の変遷、木、木炭、石炭、コークス、酸素等
2) 「鉄鉱石」から自然に含有される不純物の除去、硫黄、燐、珪素等
3) 「鉄鉱石」「石炭」「石灰」「マンガン」等の鉱石は採掘される鉱山によって、その質、鉱物的含有成分はまちまちです。 品質のよい鉱石を求めて世界中を捜し求める調査、発掘、分析等 「鉱山学」
4) 「高炉」、「転炉」の構造上の発明、改善、改良

 これ等鉄生産の手工業から工業化までに携わった工学者、科学者、発明家は無数にいたかと思いますが、いずれにしても、「今、国家にとって必要なのは鉄と血なり」と演説したドイツの首相ビスマルク( Otto von Bismarck 1815-1898 )以来、「鉄は国家なり」は現在でも生きている国家概念である。 鉄の生産はイギリスを初めとした西欧の産業革命の母であり、現在でも建築、造船、鉄道、自動車、、、、 、針1本まで鉄製品で私たちの生活にとって必需品であり、今日までの廉価な大量の需要を満たすまでには、先人の創意工夫は大変なものだったと思います。

アブラハム・ダルビー( Abraham Darby 1678-1717 イギリス )

 ダルビーはWrens Nest Birminghamで生まれ、クウエイカー教徒として教育された。 ダルビーは従来の「るつぼ ( furnace ) 」が粘土( clay )製の鋳型で作業中に割れたり、破裂したりする欠点があった。 これを克服するために、1706年にHollandに視察に行き鋳型が砂( sand )で出来ていることを学ぶ。 直ちに帰国し、工場に秘密の実験室を設け、砂製の鉄炉( iron pot )を幾つか試作した後、大型のiron potを実用化しroyal patentを取得する。 

 また、1712年にThomas Newcomenにより開発された蒸気機関による送風も考え、コークスによる高炉により鋼の脆性に係わる硫黄除去しの延性に富む製鋼の操業に成功する。 ダルビーの祖父の生地( Coalbrookdale in Shropshire )に戻り、新しく製鉄所で鉄の製造を開始する。 そして息子ダルビー2世 ( 1711-1763 )、孫のダルビー3世 ( 1750-179 )とより完成した製鉄所として受け継がれて行く事になる。 

 この高炉による鉄の大量生産 ( great scale for iron smelting )の発案は、イギリス製鉄業の隆盛に寄与しまた産業革命の原動力ともなり、17世紀イギリス工業の繁栄の偉大な発明として後の世に語り継がられている。 またダルビーはこの製鉄所の立つCoalbrookdale in Shropshireの近くを流れる谷川( River Seven at Broseley )に鉄鉱石また燃料の石炭を運ぶための橋を掛ける事を考え、青写真で終わるが、ダルビー3世がThomas Gregoryの計画のもとに、John Wilkinson ( 1728-1808 )の力を借り1777年に工事に掛かり1779年に竣工する。 このコールブルックデール( Coalbrookdale )峡谷の世界で最初の鉄橋はCoalbrookdale iron bridgeと呼ばれ、1986年に世界遺産に登録された。

 John Wilkinsonは鉄道時代を迎え、棒鋼の穴空けに欠かせないローリング機械の技術の面で、James Wattのロータリー・スチーム・エンシンの開発に大きな役割を果たした。

レオミュール ( René Antoine Ferchault de Réaumur 1683-1757 フランス )

 レオミュールはLa Rochelleで生まれ、Jesuit’college at Poitiersで学ぶ。 専門は昆虫学であるが、自然学、科学、物理、数学と幅広く研究した。 1708年、24歳の若さでAcadémie des Sciencesの会員となる。 鉄を錆びないようにする「すず鍍金」を発案する。 

 鉄( iron )と鋼( steel )の違いを、炭素の含有量で区別し、炭素の量が多い鉄を「鋳物、鋳鉄
( cast iron )」、中間の鉄を「鋼( steel )」、少ない鉄を「錬鉄( Wrought iron )」とした。 これについてはレオミュールの著作「 L’art de convertir le fer forge en acier
( the art of coverting iron into steel ) 」製鉄技術についての研究がある。

2006年08月03日

ベンジャミン・ハンツマン ( Benjamin Huntsman イギリス 1704-1776)

 ハンツマンはLincolnshire Englandで生まれる。 若いときには、Doncasterで時計製造業を目指す。 当時、製鋼業に携わる人達は、鋼の素材をドイツからの輸入に頼っていたが、ハンツマンは時計のスプリングまた振り子 ( pendulums )の素材としては適していないことを気づいていた。 ハンツマンは時計の部品に適した品質の良い鋼を作る実験を始めたが、ハンツマンは鋼( steel )を作ることが極めて困難なこと、特に鋼を溶かすには1400℃以上の高熱が必要であり、かつまた温度の持続を1週間を必要とした。 また出来た鋼はバラツキ、材料特性に信頼性が欠けていた。 鋼をつくる「るつぼ (crucible )」の適切な燃料を得ることに苦労していた。

 1740年に燃料としての品質の良いコークス ( coke )を探しにSheffieldの南Handsworthに秘密の実験室を構え、長年の実験の末、「るつぶ ( crucible )法」に辿り着く。 銑鉄( pig iron )であれば、「るつぶ ( crucible )」法で充分溶かす事が出来、1200℃程度、炭滲鋼( Blister Steel )を作り、それを鍛造して硬くかつ強靭な錬刃鋼、積鋼( shear steel )を作る事を可能にした。 ハンツマンは「るつぶ鋼( crucible steel )」の発明の貢献度に対してthe Royal Societyが会員への要請をしたが、静かに今までの研究を続けたい事と、クエイカー教徒( the Society of Friends = Quakers )の精神に背く事を理由に会員になる事を断ることになる。

ヘンリー・コート( Henry Cort 1740-1800 イギリス )

 コートは反射炉(reverberatory furnace)で錬鉄 ( wrought iron )を溝つきローラー( grooved rollers )で、回転法( rolling process )を、また攪(パドル)錬鉄法 ( Fining or Puddling process )で溶解中の鉄を精錬(質を高める)することに成功する。 パドル法( Puddling Process )の発明により、イギリスは今までかなりの量の錬鉄をsweden また Russia からの輸入に依存していたが、逆に輸出するまでになり、イギリスの錬鉄の生産に大いに寄与することになる。 コートは、1765年にはthe Royal Navy in Londonの代理人であったが、この成功により1775年にthe Navyを辞職し、Portsmouth港に自身の工場を創設することになる。

ジェームス・ナスミス ( James Nasmyth イギリス 1808-1890 )

 ジェームスはEdinburgh で生まれる。15歳でスチーム・エンジンを開発し、1834年にはManchesterで機械装置の会社を創設し、中でも蒸気ハンマー ( steam hammer )で知られた。 1837年にthe Great Western Steam Co.から蒸気船Great Britain号の蒸気エンジンまた巨大な外輪軸 ( paddle-shaft )の製作依頼があったが、Brunelの設計変更により中挫することになる。 これ等に係わる技術はEnglandを訪れていたフランスの the Creusot Iron Woeksで採用されることになり、それから橋梁、岸壁、港湾、基礎のパイプ等に多く用いられ、ジェームスが開発した後蒸気ハンマーはの鋼材の圧延には大きな貢献をした。

2006年07月29日

ヘンリー・ベッセマー ( Henry Bessemer 1813-1898 イギリス)

 ベッセマーはHitchin Hertfordshireで生まれる。 ベッセマー式転炉 ( Bessemer Converter )、90分で30tonの高品質鋼( high grade steel )を製造可能とした製鋼法を1856年に開発した。 後に、ベッセマーは当初の平置きの型の転炉では、空気は炉上部からまた横から送り込まれていたが、炉の溶解銑鉄( smelting iron )は上部のみが鋼になるが、下部の銑鉄はパドルしないかぎり銑鉄のままである事に気づいた。 また従来のパドル法では、鋼の攪拌に多大な労力と熟練工が必要で、また取り出せる鋼の量にも限りがあり僅かであった。 これを改良するために炉への送風を炉の下部( base )に送風孔を設け、かつ鋼炉を回転させ出来るように一風変わった卵型の新回転炉を1860年に開発した。 

 この新しく開発された新炉では、炉に送り込まれる空気と溶解した銑鉄 ( pig iron )が激しく反応し炉の上部からは激しく火花が散り、今までの平炉とは全く異なる炉に変わった。    この激しい反応により、銑鉄に含まれる炭素 ( carbon )及び珪素(silicon )などの不純物を一度に除去することが可能となり、炉の温度も1600℃まで上昇させることが出来、鋼の品質も各段に良くなり、一度に精錬される鋼の量も飛躍的に伸び、また精錬に必要な時間も大幅に短縮が可能となり、廉価な鋼の精錬が可能となった。 

 当時、鉄道、造船、橋、建築など、鋼を必要とする産業は急成長を遂げており、鋼の需要は危機的な状態であった。 この救世主的なBessemer convertorsの役割は時代の要求を賄う事を可能とした精錬技術の画期的進歩であった。 この頃、Britainをしばしば訪れていた カーネギー( Andrew Carnege 1835-1919 スコットランド)はBessemer convertors法の技術を米国の製鉄所に移植し、品質の悪いsteelを改善し新しく大量の廉価な品質の良いsteelの生産に乗り出す。

2006年07月25日

ギルクリスト・トーマス( Gilchrist Thomas 1850-1885 イギリス)

 トーマスはLondonに生まれ、当初医学を志したが、生活のため医学への道を断念余儀なくされ、裁判所に勤務する傍ら、夜間独学で化学を勉強し、その中で20年間製鉄家が取り組んで果たせなかった鉄からの燐成分の除去に取り組むことになる。 

 Bessemer法でもSimens-Martin法でも鉄鉱石に含有する不純物、燐の除去は出来ず、燐は鋼の延性を阻害し、その侭では実用に耐えられないので燐含有量の少ない鉄鉱石を選ばなければならなかった。 ヨーロッパで採掘される鉄鉱石の9割は高燐含有鉱石でした。 

 また転炉炉壁の耐火煉瓦は珪石で作られていましたので、それに含まれる不純物の燐も問題にされていました。 この燐成分を取り除く方法として石灰を混入すれば、燐成分は燐酸としてスラグに含ませて除去することは可能であることは知られていましたが、塩基性の石灰が酸性転炉の炉壁と激しく反応し、転炉の寿命を損ねました。 

 米国では燐含有量の少ない鉄鉱石が産出されたので転炉は大いに利用されました。 それゆえ、ヨーロッパで無尽蔵に採掘される多燐含有鉄鉱石が利用できればと考えたのがトーマスでした。 トーマスは従兄弟で大きな製鋼所で化学技術者として勤務していたPercy Gilchristと共同してBesse-mer法の炉内壁に塩基性レンガを用いて鉄鉱( iron ores )に含まれる硫黄不純物( phos-phorus impurities )を除去するThomas-Gilchrist processを1875年に考案した。
 
 このBessemer法の炉内の高温1600℃に耐えられる融点2800℃の塩基性レンガ「生石灰( 酸化カルシューム CaO )と酸化マグネシューム( magnesia また magnesian limestone )を用いた」の開発が焦点になった。 このトーマス法の発案により、フランスードイツ国境地帯のミネット鉱山の高燐含有鉱石が利用されるようになり、フランスのLorraineードイツRuhr地域の製鉄業は栄えました。
 
 余談になりますが、フランスのLorraineはドイツ語圏で、ここで生まれたフランスの政治家Robert Schumanが1950年に、この鉄鋼、石炭のフランスのLorraineードイツRuhr地域一帯を両国管理下に置くとした「 the Schuman Declaration」は有名である。 

アンドリュー・カーネギー ( Andrew Carnegie 1835-1919 スコットランド )

 カーネギーはScotland東部のDunfrmlineで貧しい手織機職人の子として生まれる。  カーネギー一家は水力織機の工業化に押されて失業し、1848年に米国のAllegheny、Pennsylvaniaに移民する。 カーネギーは一家を助けるために、移民した13歳の時から多少馴染みのある紡績工業( a cotton mill )の糸巻き工 ( A bobbin boy )として働く。 その後カーネギーは51歳で結婚するまで勤勉に働くだけの半生であった。 

 ただカーネギーには時代を見る目があり、常に時代の潮流に乗った仕事に就いた。 つぎに就いた仕事は、発明されたばかりのモールス電報配達夫となり、仕事の合間を見てモールス信号とその電信キー操作を習得するような勤勉さがあった。 その後、広大な米国に鉄道時代が到来していたので、Pennsylvania Western Union鉄道に勤めた。 そこでの勤務中に、たまたま起きた事故の連絡にモールス信号と電信キー操作の技術が、ただちに脱線事故の復旧に役立ち、またその技術によって、a Western Union鉄道の列車稼働率を4倍迄高め、カーネギーの手腕は高く評価された。 

 そこでも上司に可愛がれ、会社の管理、経営、投資についても勉強した。 また節約に努めコツコツ勤めた資金を鉄道会社に投資し、28歳の時点では13歳の時の年収の20倍にもなっていた。 その後カーネギーの目は、広大な国土に施設される鉄道、大河に掛ける橋梁、オフィスビルの鉄骨また戦争兵器の需要と製鉄業に向けられる。 そして、これを転機にカーネギー自身が移民して来たPittsburge、Pennsylvaniaで製鉄業を営むことなる。 

 カーネギーは、多忙の中幾度と無く、西欧特にEnglandを尋ね、自身の目で、科学工業の進歩を見て歩いた。 カーネギーが当然、驚愕したのはベセッマー式転炉( Bessemer Converter )による大量粗鋼生産の工業化であった。 運良くPittsburgeに買い求めた土地の近くには、ドイツから移民してきた若干20歳程の兄弟Andrew and Anthony Klomanが設立した小さな蒸気エンジンを備えた溶解炉と木製ハンマーを装備したのみの鋳物を製造するPittsburge都市鉄工所 ( Iron City Forges )があり、他に何社かのironwork Industriesが操業していた。 

 カーネギーはこれら製鋼所の内、the Iron City Forgesとthe Cyclops Iron Comapanyを買収し、the Upper and the Lower Mills of the Carnegie、Phipps and Company、Limitedとし、これにBessemer convertors法を導入し米国で品質の悪いsteelを改善し新しく大量の廉価な品質の良いsteelの生産に乗り出す。 そして巨万の富を築くことになる。 

 1901年にカーネギーはEnglandで親交のあったNew Yorkの金融財閥 J.Pierpont Morgan に全ての資産を売却し事業の一切から身を引くことになる。 the Carnegie Companyはその後、the United States Steel Corporation と社名が変わり現在に至っている。 カーネギーは、その後、遺族に何がしかの遺産を残し、全財産を社会のために寄贈する。 私たちがよく知っている、世界中に3000以上のカーネギー図書館、数多くの音楽堂カーネギー・ホール等、幾つかの大学「カーネギー・メロン大学( Carnegie Mellon University )」の設立、カーネギー財団等がある。 

 カーネギーの書「富と福音( theGospel of Wealth )」の中で「金持ちのまま死ぬ者は、優雅ではない」と晩節を振り返っている。 またカーネギーが過ごしたPittsburgeは過去の重工業地帯ではなくなり、嘗ての「煙の町( smoky city )」の汚名を返上し、新しく生まれ変わり、金融、コンピュータ関連の優良企業の高層ビルが立ち並ぶオフィス街となり、今では誰もが憧れる都市となっている。 1998年に、埼玉県のさいたま市と姉妹都市の関係も結び、「緑の街の環境作り」のキャンペインにも力を注いでいる。

2006年07月15日

ダルトン ( John Dalton 1766-1844 イギリス )

 ダルトン はEaglesfield、Cumberland of England で生まれる。 ダルトンの家系は英国キリスト教会派でなくキリスト教クエイカー派のためダルトンは優秀であったが、Oxford大学、Cambridge大学への入学もまた公的機関の官僚にも、学会への入会もできなかった。 ダルトンの一生に暗い影を落としたキリスト教世界を背にした旧体制下のイギリス社会で活躍した化学者、数学者でした。 1642年のフォックス( George Fox 1624-1691 イギリス 宗教家 )の項を参照。 

 ダルトン は12歳でCumberlandのクエイカー派が創立した学校へ2年間通い、その後、Kendalの学校に兄と共に12年間勉強をした。 Manchesterに新しく設立されたCollegeで数学と自然哲学( natural philosophy )を教えていたが、1800年に辞職しManchesterの文学及び哲学学会の秘書官を務め、傍ら数学と化学を私的に教授していた。 1817年から哲学学会の会長を晩年まで務めた。 

 ダルトンの人生の初期は数学と気象学に費やされた。 ダルトンは1787年から人生の晩年まで、ダルトンが住む湖畔地方の天気の気象学的変化を記録し、その記入事項は20万件に及んだ。 その記録は1793年「 Meteorological Observations and Essays 」として出版された。 気象の記録の中で、特に1788年に起きたオーロラ( aurora )に大きく興味を示しオーロラ現象とその輝度(大気中の電気障害によって変化する)について観測を始め、結論としてオーロラ現象は地球の磁力に係わっているとした。 また気象学の観測の中で、貿易風は大気の温度変化と地球の自転に係わる事も指摘していた。また降雨、雲の形成、大気中の湿度分布及びその特性についても触れている。 

 ダルトン自身また兄弟も、紅緑色盲( red and green color blindness )であったため、色盲についても研究し、1794年に「 Extraordinary Facts Relating to the Vision of Colors 」の著作を残している。 現代では色覚異常の原因については解明されているが、ダルトンはその著書の中で眼球内部の液体の変色に因るものとしている。 ダルトンの遺言に死後、眼球を摘出してその事実を確認する事を書き添えている。 ダルトンの摘出された眼球は現在もthe Royal Institutionに保存されている。 

 当初フランスで色覚異常症をダルトンの名を冠せDaltonismとされ、Daltonismは病理学的に先天性紅緑色覚異常症を指す。 ダルトンは生涯、色々の研究をしてきたが、中でも私たちが高校の化学で習う「気体の分圧の法則」で知られている。 異(同じ)なる二つの気体を混合した後の気体の圧力は、混合する前の二つの気体の個々の圧力の和になるという経験則である。 

 ダルトンには、まだ分子の考えは無く、原子レベルでの仮説で、原子と原子が反応して分子になる場合については、1808年のゲイリュサック( Gay Lussac )の「気体反応の法則」、アボガドロ( Avogadro )の「分子説」を待たなければならなかった。 

 またダルトンは元素記号及び原子量を定義した最初の化学者であった。 いずれにしてもダルトンは現象( facts )と着想( ideas )を統合( synthesize)することに掛けては天才であった。 私生活におけるダルトンは結婚にも恵まれず、語らう友人も無く、クエイカー派ということもあり、ただ深い思索に耽る孤独な一生であった。

2006年07月09日

ジーメンス ( Charles William Siemens 1823-1883 ドイツ )

 ジーメンスはドイツHanover Lentheで農場主の子として生まれる。 ジーメンスはドイツ生まれですのでドイツ名ではWilhelm von Simensとなります。 ジーメンスは電気技術者として後の世に知られています。 

 ジーメンスは幼少時はthe polytechnic School of Magdeburgで学び、the University of Göttingenで機械工学を学ぶ。 19歳で弟のErnest Werner Siemens ( 1826-1904電気工学者として著名 )と考案した電気メッキ法を売り込むためにEnglandに行き一応の成果を揚げる。 再びドイツに戻りCourt Stolberg at Magdeburgに入学し工学の研究をするが、兄弟で考案したスチームエンジン用のクロノメトリックまた差動調整器の開発商品を持って1844年に再度、Englandに渡る。 

 ジーメンスの頭の中は常に、Carnot、Emile Clapeyron、Joule、Clausius、Mayer、Thomson、Rankine等が発表した「熱の本質」に関する新しい発明のアイデアで一杯だった。 一方、弟のWernerが持ち込む電気工学に係わるアイデアの実用化も大変だったと思われるが、ジーメンスの工学に係わる仕事の開発とっても弟Wernerの電気工学の助けも必要でなかったかと思われる。  いずれにしてもジーメンスの生涯の工学に係わる貢献は色々有ると思いますが、大きく分けて以下の二つかと思います。

 1)海底電話線ケーブルの施設(電気工学の分野)
 1857年に深海の海底電話線ケーブルの施設はイギリス政府の要請で地中海のSardinia島からアフリカのAlgeriaまでを試みに施設され成功裏に竣工した。 1858年にドイツの依頼者からConstantinopleからChios(トルコ共和国の西のエーゲ海に浮かぶ小島)を経由してCandia(クレタ島北の港町)迄、Syra(エーゲ海のデロス諸島の一つ)からChios迄、CandiaからAlexandria迄、Red Seaを経由してIndian OceanからIndia迄の施設をした。 この海底電話線ケーブルはコンスタンチンノーブルからダーダネルス海峡を通過して、エーゲ海の島々を経由して、地中海を横断してアフリカのアレキサンドリアから紅海を通り、インド洋の深海を施設してインドまでの多難な海底電話線ケーブルの施設をした事になる。 このために、Williamは海底電話線ケーブル施設のための新建造施設船は電気科学者の名前ファラデイに因んで「Faraday 号」と命名された。 そしてインドと西欧諸国間、BerlinとSt.Petersburg間、黒海横断など数多く手掛け、このお陰でLondon とCalcutta間11,000kmを1時間で連絡しあえるという計り知れない便利さを成し遂げた。 1931年迄にこれ等海底電話線ケーブルの機能障害は第一次世界大戦の間に一度だけであった。

  2)蓄熱槽の工学機械への応用(熱力学の分野)
  企画者及び事業主としてのジーメンスは熱力学に係わる科学工学分野での大変な貢献をする。 海底電話線ケーブル施設もそうであったが、この分野でもジーメンスは弟のWernerとの共同研究と実用化に取り組むことになる。 これは前述のように、J.P.Joulesのエネルギー保存則の実験の成果とRankine、Clausius、Lord Kelvinの熱力学の物理的かつ工学的な理論に基ずく実社会への工業への適用、応用であった。当時の、機械産業の分野、例えば製鉄業、工場また鉄道等での蒸気機関、その他いろいろの工業分野での内熱機関( internal combustion )あるいはgas engines の熱エネルギーの効率が大変悪く、熱エネルギーの多くは煙突を介して放出されるという無駄をしていた。 この熱エネルギーの効率を上げること、熱サイクルの再利用を改善、改良する事を目的としたものであった。 

 1856年に、ジーメンスは弟Wernerのアイデアを取り入れた蓄熱槽( regenerative furnace )の発明である。 この蓄熱槽の原理は、非常に単純(simple)で、内熱機関に使われた熱は、完全に冷え切れない前に放出されてしまうので、まだ使われずに残された熱エネルギーを熱が完全に冷え切るまで、一度内熱機関で使われた熱は周期的に元の蓄熱槽に戻るよう( periodically repeated process )に設計され、再度内熱機関に循環させ使用するものである。 また熱効率を高めるために、蓄熱層は内熱機関の前に設置され内熱機関に吹き込む空気を予め熱しておく事も考案されていた。 蓄熱槽の構造は熱が吸収されやすいように蜂の巣状( honeycomb )にレンガ( loose bricks made )がくまれた装置である。 この発明はthe Royal Institutionを去る電気科学者Faradaysのお別れ会を飾る主論文として贈られた。 実社会では、この発明は1861年にChances glass-worksで成功裏に用いられた。 

 この後、多くの熱サイクル工業の分野で活躍したが、何と言っても、歴史に残る製鉄工業に係わるSiemens-Martin法への応用であろう。 この科学史書でも記述されているように、製鋼の方法は、1855年に発明されたHenry Bessemerの転炉製鋼法と1865年に発明されたSiemens-Martinの平炉製鋼法がある。 

 前者のHenry Bessemerの転炉製鋼法は一度に大量の鋼を短時間で製造する上では画期的な発明であったが、この転炉は、一度に大量の鋼を短時間で製造が可能であるが、出来た鋼の材料特性が均一性に欠ける、また反応が激しいため転炉上部からの吹き零れが多いなどの欠点があった。 Bessemerの転炉法は燐含有量が少ない鉱石を用いたイギリス、米国、カナダで、Siemens-Martinの平炉法はフランス、ドイツで主に採用された。

 一方、後者のSiemens-Martinの平炉製鋼法は従来の「るつぼ( パドル )方式」では高温が得られない点をジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regenerative furnace )方式を適用し、燃焼ガスと空気をあらかじめ高温にしておいたものを平炉( open furnace )でさらに燃焼させることにより鋼製造に必要な高温を達成し均一な良質な製鋼を可能にした。 

 この開発に10年を掛け一応の成果をみたが、製鋼の材料特性の点では完全なものではなかった。 このジーメンスが考案した平炉製鋼法を完全なものに改良したのが1863年にフランス西部のCharenteat region at Sireuilで製鉄業をしていた、Emile MartinとPierre Emile親子で、この平炉製鋼法に冶金学的(銑鉄またスクラップなどを加えるなど)な創意工夫により鋼の炭素当量を調整し良質な鋼が出来るようジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regene-rative furnace )方式をより完成した平炉製鋼法にした。 

 ただ転炉法また平炉法のいずれにしても石炭から出る硫黄、燐の不純物の混入は避けられず、1875年にSidney Gilchrist Thomasが塩基性レンガを見出すまでは、品質の良い鋼を製造することは出来なかった。 

2006年07月04日

ロバート・フルトン( Robert Fulton 1765 – 1815 米国)

 フルトンは1765年に米国Pennsyvania州Lancaster郡の片田舎 Little Britainの農家に生まれる。父親とは3歳の時に死別している。 フルトンが生きた時代は、米国では1776年の独立宣言があり、フランスでは1789年にフランス革命が起き時代が大きく動き出した時代でした。 

 ペンシルヴァニア( Pennsyvania )州とNew york州は隣接した独立時の最大の州で、1682年にWilliam Pennとクエイカー派( 参照 フォックス George Fox 1624-1691 イギリス・クエイカー教を創始した )の一団が米国に渡りペンシルヴァニア州に拠を創設し発展させた地で家族も敬謙なクエイカー派であった。 またペンシルヴァニア州のフィラデルフィア ( Philadelphia )は独立宣言の地でもあり、時代は下がるが、カーネギー ( Andrew Carnege 1835-1919 スコットランド)が近代製鉄所を起こした地としても知られている。 

 フルトンは幼年時代、Lancasterの学校で教育を受け、絵画、文学に目覚め、また一方機械弄りも好きな利発な子供でした。 17歳の時に画家を目指し「人物像画」「風景画」で、ある程度の実績を上げており、それを踏まえて1786年にイギリスに渡り、さらに7年間、Benjamin Westのもとで画業に専念するが、何か自分のアイデアを実現する科学技術に目覚めだした。 それというのも、当時のイギリスは産業革命の最中で、紡織器の軽工業の発達から、ワット等の強力な蒸気機関の発明により鉱山での水汲み器への応用、運河の開削、製鉄工程の発展など重工業時代へと進み、そうした時代背景の中で、もともと幼年時代から応用科学技術に興味のあったフルトンが田舎の米国から近代国家発展途上のイギリスで目の当たりする蒸気機関の動力に目覚めないわけが無く、27歳の時に絵画から科学技術の方に本格的に人生を掛けるようになって行った。

 それというのも、絵画、音楽また科学技術の発明の分野にしても、その道で成功するには先立つ物は資金で、米国で面識のあった裕福な政治家リビングストン( Chancellor Robert R. Livingston ) を後ろ盾に出来たことも幸いであった。  リビングストンは米国がまだ植民地時代から最も有名な政治家で米国独立宣言起草の大陸議会 ( Continental Congress 1774 – 1776 ) のメンバーの一員であった。
 
 何年間の研究、実験を繰り返し、運河の掘削機ほか各種の特許を出願し、画家としてより、発明家として知られるようになり、1797年、32歳のときパリに行く事になる。 フルトンは、そこでフランス語、ドイツ語、数学また化学の基礎を学び、後に、その応用として当時最新の機雷 ( torpedoes )、また潜水艦 ( submarine boats ) の開発を手掛ける事になる。 

 フランス政府のナポレオン(Napolēon Bonaperte )からの依頼( commit )で1800年、世界で最初の潜水艦を建造しました。 潜水艦の推進力としては銅製球体に200気圧の空気を封じ込め、それを噴出させることにより、4時間程、水中で稼動し一応の成功を治めたが、この発明に対してはフランス政府からのその後の援助を得るには至らなかった。 

 フルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名はノーチラス号ですが、ナポレオンから依頼され、また世界で最初のという事もあり船名を付けるにはそれなりに考えた上での事だろうと推測されますが、なぜノーチラス号としたかはいろいろ調べましたが分かりません。 Nautilus (ギリシャ語で水夫とかオウム貝ですが)、 この頃、既にフルトンはアンモナイトと同じ2億年前の生きた化石とされているフィリッピン沖の深海に生息するオウム貝の事を知っていたのですね? 大航海時代から300年を経ているので、

 一般に貝は海岸の浅瀬に生息しますが、オウム貝はわりと深いところに生息し時折、海面に浮上します。 その為、浮き袋のような幾つかの空気室を内部構造としています。 この浮き沈みが出来る潜水艦みたいなオウム貝を船名としたのでしょうか? フィリピン沖のオウム貝は日本でも鹿児島、宮崎の海岸に死んで流れ着きます。

 余談になりますが、ヨハン・セバステイアン・バッハ( Johann Sebastian Bach )のオルガンの古典中の最大の名曲「トッカートとフーガ」を聴くと、ジュール・ベルヌ1869年作、「海底2万哩」の1954年版の米国映画の「潜水艦ノーチラス号の海底2万マイル」でBGM(Back ground music )として流れていた事が思い出されます。 ネモ船長役の若き日の主演俳優カーク・ダグラスがパイプ・オルガンでこの「トッカートとフーガ」を狂気的に演奏する姿とフルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名は「ノーチラス号」とがリンクし印象深いものがあります。 米国初の原子力潜水艦「ノーチラス号」は1954年に建造され、北極海海底を1958年に横断した事でも知られています。 

 蒸気機関を動力とした船を1793年以前に考えており、リビングストンはフルトンのアイデアを実現するために、蒸気船を米国で建造したが、一旦は失敗に終わった。 たまたまリビングストンがフランス米国公使として赴任することになり、フルトンとリビングストンは1803年にパリのセーヌ川で外輪式( paddle type )をさらに建造したが、満足のいくものではなかった。 フルトンは17年振りに米国に戻り、リビングストンと、それからも研究、実験と失敗の限りを尽くし、1807年に「 Clermont ( ハドソン川のリビングストンが所有する土地の名前で、そこで建造されたので ) 」号を建造し、首尾よくNew yorkとAlbany間 (150milesを30時間、時速8kmで)の航海に成功した。

  蒸気機関を動力とした船の開発を試みたのはフルトンが最初ではなく、
1783年に Claude Francois Dorothee Jouffroy d’Abbans
1784年にJames Rumsey
1790年にJohn Fitch
1792年にElijah Ormsbee
1796年にCollect Pond
1804年にJohn Stevens
等が試行錯誤したが、全て、最終的な完成をみなかった。

 フルトンとリビングストンは親密で、後にフルトンはリビングストンの娘Harriett を妻とする。 またフルトンは1815年に眠りに付くが遺体はリビングストンのTrinity Churchyard の地下の同じ納骨堂に安置されている。

2006年06月27日

フォックス ( George Fox 1624-1691 イギリス)

 プロテスタント・クエイカー派の創始者クエイカー(Quaker)派(正式には the Society of Friends )はGeorge Fox (1624-1691) によりプロテスタント派の一派として創始されました。 クエイカー(Quaker)派の名の由来は、祈りの時、身体を意識的に揺らすまた心霊のため震えるところから、地震(Earthquake:地球が揺れる)の英語quakeからきています。 

 今上(平成)天皇の英語の家庭教師バイニング( Elizabeth Gray Vining )夫人また5000円札の顔でも知られている新渡戸稲造( 1862-1933 盛岡出身)、「われ、太平洋の掛け橋とならん」と国際人として生き、東京女子大学初代学長、また著名な「武士道( the Soul of Japan )」を著す) が結婚した女性、メアリー( Mary Patterson Elkinton )もキリスト教クエイカー派でした。 

 信教徒ピューリタン( Puritan : 清潔、潔白を表す purity に由来)と同じく、1682年にWilliam Penとクエイカー派の一団が米国に渡りペンシルヴェニア州に拠を創設し発展させる。 因みにペンシルヴェニア( Pennsylvania = Penn’s wood-land )は創設者William PennのPennと森を表すラテン語のsylvan ( silvan )に由来する。

2006年06月19日

ベサリウス ( Andreas Vesalius 1514-64 ベルギー)

ベサリウスはBelgianのBrusselsで生まれ、1533-1536年、the Louvianとthe Paris Universityで学び、特に、the Paris Univeristyでは、薬学と解剖学を学んだ。 それ迄にも古典的なGalenの医学書が有ったが、自ら解剖を手掛け、 1543年に現在の医学の源流をなす、7巻からなる革新的医学書「De Humani CorporisFabrica ( 人体の構造 ) 」を著作した。 今見ても驚くほどの身体の細部に到るまで、詳密な挿絵を彼自身が描いている。 スペインの宮廷で過ごした後、帰途、船の座礁Zacynthus島で亡くなっている。 下記に記すように、Copernicusの地動説と同じように、中世の盲信的な中世キリスト世界的な考えを180度方向を変える考えであった。

2006年06月15日

ガリレオ・ガリレイ ( Galileo Galilei 1564-1642 イタリア) 

 ガリレオはイタリアのピサ( Pisa )の呉服商(父親は数学者、音楽家でもあった)の家に生まれる。 Pisaはトスカナ( Toscana )州のアルノ( Aruno )川とリグニア( Ligurian )海に面し、ローマ時代の12 – 13世紀には海軍基地として栄えた。 またピサの斜塔( the leaning bell tower )で知られている。 ピサの斜塔はボンナノ・ピサーノ( Boranno Pisano )が設計し、1173年から200年の歳月を掛け1350年に完成した。
  
 ガリレオは1589年にピサ大学の教職に付き、大学では数学、天文学を受け持ち、1592年に、パドウア( Padua )大学( 1222年設立)に籍を移し、教授となり1609年までの18年間 では幾何学、数学、天文学を教える。 大学の在るパドウア( Padua )はVenezia( Venice )の西40kmに位置する。 

 ガリレオは当初、ピサ大学では、太陽、惑星は全て地球の周りを回っているという当時受けられていた「天動説」を講義していたが、1592年に、パドウア( Padua )大学では、地球、惑星は全て太陽の周りを回っているという「地動説」、コペルニクス( Nicolaus Copernicus )の新説( sun centered or heliocentric theory )に切り替えており、1597年にはケプラー宛の手紙で「地動説」の正しい事を伝えている。  

 切り替えた理由は、1608年にオランダで発明された望遠鏡を自ら天体望遠鏡として1609年に正立像、40倍率のガリレイ式望遠鏡に改良し、木星に周りを4つの惑星が回っていることを発見し、金星が月と同じように満ち欠けが有ること、また日の経過と共に太陽の黒点が移動することを発見し、太陽の自転また軸の傾きが確認されたこと等から、地球もこれらと同じ同類性がある太陽の周りを回るの一つの惑星に過ぎないのではないかという、自身、コペルニクスの天動説が正しい説であると確認できた事による。 

 ガリレオはパドウア時代に輝かしい業績を残している。 1610年にパドウア大学を退職し、フィレンツエに戻り、その年に「星界の報告」、1613年に「太陽黒点論」、1623年に「贋金鑑識官」、1632年に「天文対話」、1638年に「新科学対話」を著している。

 1610年に「星界の報告」を著した頃から「地動説」を口にだすようになり、1615年頃から、ドミニコ会修道士ロリーニと討論となり、「地動説」の件で1616年にガリレオは第一回宗教裁判に掛けられ、ローマ教天皇庁から「地動説」については慎むよう命じられる。 既に、ジョルダノ・ブルーノ( 1548 – 1600 Giordano Bruno )は1592年に「無限宇宙論」を説き投獄され、1600年にローマ教天皇庁により焚殺の刑になっている。 

 ガリレオは1632年に「天文対話」をフィレンツエで刊行し「地動説」を擁護したとして、1633年に第二回宗教裁判に掛けられ、焚殺の刑になるところを自説を取り下げたため、無期懲役の身となる。 真偽の程は解りませんが、有名な「でも地球は動いている(Eppur si muove)」と呟いたとされております。 ただ、すでに69歳の高齢であり軟禁の減刑となる。

 ガリレオは天文学の分野ばかりでなく、1581年に振り子の振幅の大小に係わらず、揺れる往復の時間は同じであるという「振り子の等時性( the isochronism of the pendulum )」を、1604年にアリストテレスの学説、重い物は軽い物より早く落下するとされていたが、ガリレオは物体距離は時間の二乗に比例するとし、物体の重さとは無関係とする「落体の法則」を発見する。 また「天文対話」の中で、厳密には言いえていないが、「動的」静止と「静的」静止について触れており、後に前者の考えがデカルトにより力学の基本法則として、ニュートンの「慣性の法則」へと導いていくとことになる。 

 「静的」静止は日常地上で認識しうるように外部から力が作用しない限り物体は永遠に静止している。一方「動的」静止は外部から力が作用しなくても、それに逆らう作用がなければ「等速」の運動を永遠に維持する。 この事実も認識しうることで、何故に、惑星という重い星が外部からの力の作用なしに静止せずに永遠に運行し続けるのかは疑問に思います。 

 1543年にコペルニクスの主著「天球の回転について」の中で、この永遠に「等速」の円運動を続ける惑星の動力源を太陽の磁力(万有引力の法則が見出されまでは)に求め、太陽中心の天体構造論の構築へと歩んでいく事になる。
 
 ガリレオは1637年に太陽、星などの観測により片目を、翌年に両眼を失明する。 1642年に軟禁されていたアルチェトリの別荘で78歳でこの世を去る事になる。 ガリレオは、現在起きている現象に対して、まず仮説を立て、数学的また実験的に演繹し、得られた結論が現象に符合すれば「真」とし、符合しなければ「疑」とする。 現在で言うところの「仮説演繹法」の基礎を打ちたてた。 ガリレオは哲学、宗教から科学を分離する事を常に考えており、近代科学を正面から見定めた科学者で、後世の人からフランシス・ベーコンと共に、「近代科学の父」と呼ばれている。

ハンス・リッペルスハイ ( Hans Lippershey 1570 – 1619 オランダ)

 ハンス・リッペルスハイはドイツのWeselで生まれ、オランダ( Netherlands )に移住し、ミッテルブルフ( Middleburg )で「めがね」業を営む。 MiddleburgはNetherlandsの南西部Zeeland州に位置し、絵画、工芸などの輝かしい地方都市であったが、一方、暗い側面としてAmsterdamと並び大航海時代からの尾を引く、大西洋を渡る新生大陸への最大の奴隷貿易港であった。

 ハンス・リッペルスハイは店でレンズを使って遊ぶ子供たちの、喜ぶ歓声に、ふと自身、同じようにレンズを組み合わせて覗いてみると、驚いたことに、近くの教会の屋根の風見鳥が肉眼で見るより明らかに大きくかつ鮮明に見えた。 これ等二つのレンズを筒の両側に固定し、望遠鏡( telescope )の原型を作り、「 kijker 」と名づけた。 意味は「 looker 」である。 これをベルギー政府( the Belgian government )に1608年に特許の請願をするが、既に公知な事が理由で却下される。 

 ただ、誰が最初に望遠鏡を発明したかとなると、この残された特許請願書によりハンス・リッペルスハイとされている。 他の説では、1589年にナポリ( Naples )のGiambattista della Porta( 1535 – 1615 :Portaがライフワークとして50歳の時に出版した、博学史20巻の17 巻の7章は光学について、10章が問題のtelescopeについて書かれている)、Netherlands北部の町AlkmaarのJacob Metius( 1571 – 1635 )、同じMiddleburgのSacharias Janssen( 1588 – 1632 )もオランダ議会( the States General )にtelescopeの発明について疑義を申し立ている。

ガラスは古代からあり、レンズに使われるような透明なクリスタル(水晶)的なガラスは12世紀頃イタリアのベネチア( Venice )で作られ、後にチェコのボヘミア( Bohemia )、フランスのバカラ( Baccarat )、オランダ、イギリスへと広がる。 オランダでのガラス製造技術はイタリアから導入されたが、レンズを組み合わせるアイデアはこのMiddleburgで始まったものと思われる。 

 余談になりますが、強化ガラス「オランダの涙またはPrince Rupert’s drops 」の製造また現在でも実験科学で使われる静電気を蓄えるライデン瓶( フランクリンが雷雲の中に凧を飛ばし静電気を確認した実験に使われる )はオランダのライデン大学で発明された。

 ハンス・リッペルスハイは軍用にtelescopeを製作し、また新たに、複合式顕微鏡( the compound microscope )また双眼望遠鏡( the binocular telescope )も試作している。 これを伝え聞いたガリレオも,1610年には自作し、月面、惑星また太陽の黒点などの観測をはじめている。  Telescopeの日本への伝来も意外と早く、徳川家康にイギリス国王ジェームス一世による使節団のジョン・セーリス( John Saris 1579 – 1643 )が1613年に献上したと言われており、徳川美術館に所蔵されている。 

 この後、ケプラーの考えにより実像と虚像が上下( up – down )逆転しないようにした現在の形に近いものにした。  それから長い年月の後、現代のすばる望遠鏡まで発展してきて、45億光年先の銀河系誕生はおろか140億光年先の宇宙誕生を探るまでになってきている。

2006年06月03日

マルチン・ルター( Martin Luther 1483 – 1546 ドイツ神学者 )

チューリンゲン ( Thūringen )に生まれ、エルフェルト ( Erfurt )大学で法律を学ぶ。 1505年に修道院に入り厳しい修業をし、その後ドイツ中東部の゙ヴィテンベルグ( Wittenberg )大学で神学教授をしていた。  その時のルターの課題は「いかにして恵みの神を獲得するか」で、 常々、ローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを望んでいたルター は、1517年(現在では宗教改革記念日)、ローマ教皇レオ10世(フィレンツエのメッジチ家の出身)の「贖宥券(免罪符)」の販売(教会の腐敗)に対して「免罪符に対する95条の掲題」を発表し、宗教改革を行う。 

ただ、腐りきっていたローマ・カトリック教会内部でもカルロ・ボルメオ ( St. Carlo Borromeo 1538-1584 )等により宗教改革は強力に推し進められていた。 余談になりますが、カルロ・ボルメオはミラノの大司教ですが、有名な絵「St. Carloの食事:Crespi Daniele 1590-1630 Italy、milan」に聖書を読みながら粗末な食事をとっている聖カルロ・ボルメオの姿が描かれています。

ルターは1520年「キリスト教の自由」の著作において「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を主張した。 教会、修道院の配下におかれていた権力的キリスト教、特に教会のもとでのみの修業により神の恵みが得られるとする旧態的キリスト教をキリスト教会に属さなくても、一人一人の自由なキリスト教の信仰で「神の愛の恵みは」授けられる事が本来的であるとした。 

このローマ・カトリック教会を足元から瓦解させるようなルターの主張はローマ・カトリック教会と真っ向から対立し、当時、絶対的な権力を持っていたローマ・カトリック教会教皇庁から1520年ルターは破門される。  これを期に、ルターはラテン語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳し( また地域で分れていたドイツ語の方言を統一することにも貢献する )、一般の大衆に聖書を読む機会を与えた。 1522年に新約聖書、1534年に旧約聖書が、当時開発されたばかりのグーテンベルグ゙の印刷機により出版され、迅速にドイツ各地の封建制度に苦しむ市民・農民また騎士階級から、ローマ・カトリック教会の力の及ばない北欧へと広まっていった。 

この間、1530年にアウグスブルグ ( Augsburg )国会の宗教和議において、プロテスタント信仰告白書「アウグスブルグ信仰告白」が提出され、プロテスタント・キリスト教が社会的な地位として成立する。 この時代、ルターのみが旧来のキリスト教に疑問を感じていたのではなく、古くはエラスムス( Desiderius Erasmus 1469 – 1536 )も「純粋な福音」を著しており、また時期を同じくして、西欧各地で各種のプロテスタントの名のもと宗教改革の考えが表面化していた。 その大きな流れとして、スイス・ジュネーブのジャン・カルヴィン( フランス生まれ Jean Calvin 1509 – 1564 ) も1536年に「キリスト教綱要」を著し、カルヴィン派プロテスタントを創始している。
 
カルヴィンはルターと違い「 国家 」と「 キリスト教 」を政治的に強く結び付けている。 国家権力は神から授かったものとし、国家の厳格な規律のもと国家と教会は協力して、勤労を美徳とし国を平和裏に治める神権政治を主張した。 当時、西欧各国は自然科学、産業の機械化、資本主義経済発展の糸口にあり、国家としては都合の良いキリスト教の出現であった。 そのためルター派がドイツ及び北欧に対し、カルヴィン派プロテスタントは西欧での普及、フランス、スイス、オランダ、イギリスと国際的な展開をする。 

後の歴史家が語るように、ルター派は中世的な色彩を拭いきれていないと指摘される所以である。  また時代はキリスト教二大宗派、カトリックとプロテスタント間の西欧全体を巻き込んだ100年戦争の覚めやらぬ内に、南ドイツ地方を治めていた神聖ローマ帝国の統治能力が衰退し、それにハプスブルグ家の利権が絡み、ドイツ国内を中心に30年間に亘り多国間でキリスト教二大宗派の争いが続いたが、
ボヘミア戦争(1618 – 1623)
デンマーク戦争(1625 – 1629)
スウエーデン戦争(1630 – 1635)
フランス戦争(1635 – 1648)
戦争終結の最後の4年間を掛けた、WestpharliaのOsnabrückとMünsterでの講和への努力が実り、1648年、近代国際法上の最初の国際条約「ウエストファリア条約」で終結をみるが、ドイツ国内はペストの流行もあり、人口の25%が減少し、経済活動が停滞し疲弊した。



ペスタロッチ ( Heinrich Pestalozzi 1746-1827 スイス )

 ペスタロッチはZurichに生まれる。 同郷の思想家ルソーJean Jacques Rousseau (1712-1778)を信奉し、その著書「社会契約論」、「エミール」を参考に、ペスタロッチの教育原理「実物(直感)教育( object lesson )」、言葉ではなく、まず「事物」を観察すること、そして「行動」にすることを実践するために1805年、Yverdonに学校を創設し、当時フランス革命により荒廃した田舎で生きた貧しいかつ社会的地位あるいは権利を有しない子供たちを一人で生きてゆける立派な社会人に育てる事を自ら学んだ、ある意味では空想的教育実践者であった。 

 ペスタロッチの死後、現在でも西欧のみでなく日本にも多くのペスタロッチの教育論に心を傾ける多くの賛同者がいる。 ペスタロッチの著作は多く有りますが 「ゲルトハートはいかに我が子を育てたか」(How Gertrude Teaches Her Chiidren  )もそうですが、ルソーが「エミール」で記す様に「子供は教育を受けて社会的人間になる前に自然に溶け込む子供でありたい」と今でもこの教育理念は正しいように思われます。

2006年06月01日

プリーストリー ( Joseph Priestley 1733 – 1804 イギリス)

プリーストリーはFieldhead in Birstall Parish、Leedsで洋服仕立て屋の家に生まれる。 1745年にラテン語を中心とした中等学校( grammar school )に入学する。 当初、ラテン語、ギリシャ語を学び、次第に物理学、哲学、幾何学、数学そして古代東洋の言語も学ぶ。 1765年にEdinburg大学から法学博士号を取得する。 また科学および政治の分野での研究で、プリーストリーは自身の電気の研究でBenjamin Franklin( 1706 – 1790米国における政治家、物理学者、外交官)とも身近な友人でロンドンで会っている。 

プリーストリーの最も有名な科学的研究は1770年代におけるガスの特性についてであった。 住まいの近くに醸造所があり、容易に炭酸ガス( carbon dioxide )を入手でき、最初の化学文献は炭酸水の製法についてであった。 これにより、あらゆるガス( airs )に興味を持つようになり、最終的に酸素を始めとして8つ(実際は3つ)のガスの特性を明らかにした。 

酸素については、1774年に酸化第二水銀を500℃まで加熱することにより、可逆反応により「何かわからないガス」が得られ、そのガスの中でねずみが生きていらる事、またそのガスは蝋燭の火をさらに激しく燃やすことを観察をし、当時はフロギストン説の時代であったので、プリーストリーはこのガスを「脱フロギストン空気」とした。 後にこのガスは「酸素」であるとラヴァジェにより名称された。

プリーストリーは独立派教会の牧師であったため、イギリス国国教会の暴徒により1791年自宅、蔵書他を破壊された。 1794年に米国のPennsylvaniaに家族ともども移住することになる。 1804年に亡くなるが、18世紀を代表する科学者の一人である。プリーストリーばかりでなく、イギリス国国教会からRobert Browne等による分離派改革運動は国家により弾圧され、信仰の自由を求めて一部は1620年代に米国に渡る。 イギリスに残った分離派は独立派となり、1642-1649年のピューリタン革命で、オリバー・クロムエルを指導者として中心的な役割を果たす。

 余談になりますが、新島襄も幕末に函館より密出国して、米国で分離派が設立した大学のひとつアーモスト大学で学び1874年に帰国し、翌年、京都に同志社大学を設立しました。

ジョセフ・ブラック ( Joseph Black 1728 – 1799 イギリス) 

ブラックはフランスのBordeauxでうまれる。 ブラックは父親のJohnでなく、15人の子供たちを育て、英語の教育を自ら授け、永い事苦労に耐えた( long-suffering maother ) 母親 Margaretの強い精神力を受け継いだものと思われる。 ブラックは幼少の頃、伝染病により肺炎を患い生涯通じて身体はそれ程健康でなく、また晩年はリュウマチに悩まされる。 ブラックはビタミンD欠乏症のため食事は菜食主義で、健康維持のため家を都会から田舎に移し、牛乳も放牧した牛からのものと徹底していた。 

ブラックは12歳の時、Belfastの学校でラテン語とギリシャ語を学び、1744年、16歳でGlasgow大学芸術学部に入り4年間を過ごすが、父親のもっと有益な学業をするよう勧められ、薬学部に進む。 ブラックはそこで薬学部教授William Cullen ( 1710 – 1790 イギリスの18世紀を代表する物理学および化学者 ) の研究室の助手となり化学に係わる事になる。 ここでの2年間を「炭酸マグネシア ( magnesia albaまたは carbonate of magnesia )」の研究に力を注ぎ、後にEdinburgh大学で学位論文となる。
    
炭酸マグネシアは土壌に幾らでも有り、当時、アルカリ剤として、医学また薬学で不可欠な化学剤でした。 余談になりますが、日本でも大阪淀川沿いの道修町(谷崎文学の春琴妙の舞台)には名だたる製薬会社がありますが、そこで作られる薬は明治の頃から炭酸マグネシアをベースにしたものが多かった。

  ブラックの学位論文では「固定空気 ( fixed air )」と呼んでいたが、今で言う二酸化炭素( carbon dioxide )を発見している。 特に、定量的な分析に立った実験に基づくものであったと同時に、後に大化学者ラヴォアジェ( Antoine Laurent Lavoisier フランス)が1776年に「フロギストン説」に代わる新しく「酸素説 ( oxygen theory )」を予知する上で不可欠な論文であったし、近代化学の礎になった。

 一旦、1752年にさらに薬学の研究を進めるため Edinburghに行くが、1756年にGlasgow大学に戻り、薬学部教授になり、解剖学 ( Anatomy )、植物学 ( Botany )および化学 ( Chemistry )の授業を受け持つことになる。 Glasgow大学には1766年まで留まり、William Cullenのしてきた「潜熱 ( Latent heat )」の基礎研究を継承し、更に発展させる事になる。 Glasgow大学に在任中に、蒸気機関を開発していた技術者James Wattに出会い終生、蒸気機関の効率化のために潜熱の考えを指導していた。 

「潜熱」とは、物質の状態の変化、水で言うと水は気体、液体、固体と温度によって状態を変える。 この状態に係わる必要とされる熱量を潜熱という。 特に、固体から液体に変わる潜熱を「融解熱」また液体から気体に変わる潜熱を「気化熱」と呼び、水では、前者には、79.7Cal/g 、後者には539.8 Cal/g が必要とされる。 William Cullenは熱量と温度の区別の理解が出来ていなかった。 

また「比熱」についても研究をし、同一の質量を、同一の温度に高めるために必要な熱量を「比熱 ( heat capacity または specific heat )」と呼ぶ。 比熱は国際単位系では、cal/g・K で、物質1gあたりの熱容量という事になりますが、熱力学理論では1モルの物質の熱容量で、モル熱容量で表し、単位系としてはJ/mol・Kで表します。

キャベンデイシュ ( Henry Cavendish 1731 – 1810 イギリス)

キャベンデイシュはフランスのNiceで生まれる。 貴族の出で、母方はケント公爵の家系で( Duke of Kent :Kent州はイングランドの東南部、現在のケント公爵Edward王子はエリザベス女王の従兄弟にあたる。 ケント公爵といえばテニスの4大トーナメントの一つウインブルトン・テニス ( Wimbledon tennis )大会に必ずご夫妻がお見えになる。)、父方はデヴォン公爵の家系で( Duke of Devonshire : Devon州はイングランドの南西部コーンウオール半島一帯)で、Normanの8世紀続いたGreat Britainの多くの貴族に結ばれている。 キャベンデイシュは代々の遺産を相続し個人としてはイングランドで有数の資産家であった。 キャベンデイシュの末裔が1870年代に母校のCambridge大学にCambridge Laboratoryを寄贈している。

キャベンデイシュは11歳でHackneyにあるDr.Newcome’s Schoolに入学する。 18歳でSt. Peter’s CollegeのCambridge大学に入学する。 キャベンデイシュは、はにかみ ( shay )やの奇人で自閉症( Asperger syndrome : 1944年にウイーンの医者Hans Aspergerが医学論文に発表した)であった。 特に女性を嫌い、夕食に羊の腿肉を食べたい時、自宅の女中にすら自ら口伝出来ず、メモに‘legs of mutton’が食べたいと書置きしたようです。 

キャベンデイシュの唯一の気晴らしのはけ口はRoyal Society Clubの会員が皆揃って、毎週開かれる会合の前に定例の食事会が模様されるが、それもしばしば忘れるけれども、会員仲間からは心から尊敬されていた。

 キャベンデイシュは科学の分野で、広範な研究をするが、根が自閉症のため、研究成
果を発表する事が苦手であった。 キャベンデイシュの主なるものを以下に示す。

1)水素の発見、空気および水の組成について
  1766年に水素を発見する。 水素は可燃性ガス( Inflammable air H2 )で、他にも木炭を加熱して今で言うところの一酸化炭素( CO )、金属を亜硫酸または塩酸で溶解し可燃性のガスなどを幾つか見出している。
空気の組成については、正確な定量的な実験を繰り返し、「フロギスタン空気」( phlogisticated air N2 ) 79.2% 、「脱フロギスタン空気」( dephlogisticated air O2 ) 20.8% を見出している。 実際は、前者にはアルゴン( Ar )が1/120含まれているが、それについては100年後のWilliam RamsayとLord Rayleighの研究を待たなければならない。
  水の組成については、水素と酸素の割合を色々変え、火花放電( glass globe をあて物にこする)により発火させ、それを幾度となく繰り返し、最終的に水素( Inflammable air H2 )と酸素( dephlogisticated air O2 )の割合が2:1であることを見出している。

2)地球質量の推定について
  1796 - 1798年に地球の質量を推定により計算し、その重さを5.97x1027 tons としたが、その後、20世紀まで、正しい値として用いられ、現在の推定値との誤差は1%である。

3)電気の性質について 
  電気科学の分野でも幾つかの輝かしい成果をあげているが、発表が苦手なため、後
にJames Clerk Maxwellが100年後の1879年に発表するまで世に知られなかった。
電気ポテンシャル ( electric potential )の概念について
電解容量 ( capacitance )の概念について
物質の誘電率 ( dielectric constant )の概念について
電気ポテンシャルと電流の関係、現在のOhm’s Lawについて
二つの電荷の間に働く電気力は二つの電荷の距離の二乗に逆比例する関係、現在のCoulomb’s Law について、

ウエーラー( Friedrich WÜhler 1800-1882 ドイツ 化学者)

ウエーラーはドイツのEschersheim で生まれ、Marburg-heidelberug 大学で当初は医学を学び、後に化学に興味を抱くようになる。 1836年にGöttingen 大学の化学の教授となる。

専門は有機化学系の物質、特に尿素( urea ) CO(NH2)2 についての研究で著名である。
また、1827-1828年にベリリユーム( Beryllium )及びアルミニュウム( Aluminium )を金属固体として見出した。有機及び無機化学の著書「 Outlines of Organic Chemistry 」を1840年に著す。 

アルミニュウムはイギリスのHumphry Davyが「みょうばん(無色透明な正八面体の結晶体)鉱石」を電気分解して発見したAluminaをウエーラーがさらに研究しアルミニュウムを金属固体として見出した。 その後、アルミニュウムの鉱石(ボーキサイト)からの分離はフランスのClaaire Devilleにより改良され、現在のアルミニュウムの製法については米国のMartin HallとフランスのPaul Heroult により個別ではあるが、同時に1886年、Hall-Heroult製法として工業化された。 

アルミニュウムの語源は「みょうばん( 英語のalum )と光る物を表す( ラテン語のalumen )」の造語である。 みょうばん(明礬)は私たちにとっても身近な物で、別府温泉の「湯の花」もみょうばんで、昔から染色、医薬用として用いられていた。 アルミニュウムは建築材料他、私達の生活にはなくてはならない素材である。 アルミニュウムは鋼( steel )に比較し軽量ではあるが、強度が弱くまたヤング係数が低いため構造材としては不向きである。

アルミニュウム95%、銅( Copper )4%、マグネシューム( Magne-sium )0.5%、マンガン( Manganese )0.5%を基本組成とした軽量で強度(比強度=強度/質量 specific strength)の高い合金ジュラルミン( Duralumin )が1906年ドイツのDÜrenで冶金学者ウイルム(Alfred Wilm)によって発明された。 ジュラルミンの語源は「ドイツの(Düren)とアルミニュウム( Aluminium )」の造語である。 

ただジュラルミンは航空機に用いた場合、空気との摩擦熱による強度の低下が問題で、現在ではチタン(チタニュームTitanium )にアルミニュウム、ジルコン( Zircon )、スズ( Tin )、モリブデン( Molybdenum )を組成としたチタン合金が使われている。 チタン合金(比重=4.5)はアルミニュウム(比重=2.7)に比べやや重いが強度が6倍あり、鋼(比重=6.8)よりも軽く、強度も2倍あり、さらに耐熱性、耐食性に優れ、ジェット航空機の主翼、エンジンまた原子炉冷却期の主要部に用いられている。 

アルミニュウムは、米国の地質学者クラーク( F.W.Clarke 1847-1931)が1924年に示したクラーク数(地殻中の元素の存在度)では7.56で1位、鉄(4.70)2位よりも多い。 ちなみに酸素( oxygen )なども含めたクラーク数の10位までの元素を合わせると、地球の重量の99%を占める。 クラーク数は1924年当時の推定値であり、現在は考えが少し違うようであるがここでは概略に留める。

グッドイヤ ( Charles Goodyear 1800-1860 米国 技術者 )

グッドイヤは米国のNew Haven of Connecticut で生まれ、父親と金物類の販売などを仕事としていましたが、会社は1830年に倒産し、負債のため刑務所に入っていた時期もありました。 その後、ゴムの改良の研究に取り組みました。 

大航海時代のコロンブスが持ち帰った生ゴム( natural rubber、India rubber )は、常温では柔らかすぎ、復元力もなく、また低温下では伸びが無く脆性的な材質で、今のゴムの性質を持ち合わせていませんでした。 グッドイヤは貧困の中、多くの実験を試み、過労の中暖房用のストーブの前で眠り込み、ふとした事でゴム液の中に硫黄( sulfur )を溢してしまい、ゴム液が硬化しているのに偶然気づきました。硫黄の硫化効果( vulcanization )の大発見でした。  

生ゴムの樹液、乳樹脂の主成分はgutta(炭水化物)である。 生ゴムは産地により呼び名が異なり、コロンブスが持ち帰った生ゴム( caoutchoue )は南米産のゴムの木( Manikara bidetata )の樹液、乳樹脂( latex )ですが、生ゴム( gutta percha )はマレー地方産のゴムの木( palaquium gutta )の樹液、乳樹脂からも得られ、こうした生ゴム( balata、caoutchouc、chicle、gutta-percha )はすべて各産地のゴムの木のnatural latexesから採取されたものである。 

現在は、合成ゴム(化学的合成)ではない生ゴムは亜熱帯のメキシコ、中南米諸国で栽培により採取されており、商業用ベースとしては、Parà rubber ( Heavea brasiliensis )、guayule( parthenium argentatum )が利用されている。 Vulcanizationは化学的には生ゴム( natural rubber )の単量体( monomers )を硫黄を加硫することにより、単量体分子を化学的につなぎ合わせ( chemical links)、重合体( polymers )として、天然生ゴムの材質を常温での弾力性、復元力、また低温下での硬化、脆性を材質的に改良している。 グッドイヤはこの特許を取得し、米国、欧州に販売を行ったが、生前には認められず、貧困に追われ失意の内、家族とも別れ、逝去することになる。

2006年05月30日

スイフト ( Jonathean Swift 1667-1745 アイルランド )

 スイフトはアイルランドのDublinで生まれが、スイフトが生まれる7ヶ月前にに亡くなり、母は生活困窮のためスイフトを保母に預け、スイフトのもとを離れます。 スイフトは経済的に裕福な義兄弟Uncle-Godwinのもとで、Kilkenny Grammar School (1674-1682)、Trinity College in Dublin(1682-1689)で学ぶ。 

スイフトは成績は良くなかったが、頑固な性格な学生であった。 スイフトが生まれた時代は、1664年のペストの大流行、1666年のロンドンの大火、アイルランドでの1688年の反カトリック宗教革命と多難な世情であった。 スイフトは生涯、聖職にあり、アイルランドとイングランドの間を行きつ戻りつしていた。 

スイフトには数多くの詩また散文が残されているが、その一つに恋人Eather Vanhomerighの愛称Vanessaで綴った詩「Cadenus and Vanessa」の著作があり、スイフトは実際に結婚した Esther Johnson、愛称stellaとは早く死に別れたが、いつまでもstellaの髪を肌身離さず持っていたようです。 

スイフトは若い時からMeniere’s 病、Alzheimer’s病に苦しんでおり20歳代から耳が聞こえなかったようで、また生まれた幼少の頃の暗い影も無く、心の優しいスイフトが、今でも若い少年少女に愛読されている「ガリバー旅行記( Gulliver’s Travels )」を著作した事が解るような気がします。 この著作は、スイフトがSt. Patrick’s Cathedral に1713-1742に勤めていた時の1726年に出版されました。 

この著作は4部構成になっており、少年少女向けの本とされていますが、その時代の風刺小説で第1部「小人が住む島( Lilliputian )」では人間社会の自尊と空虚を、第2部「大人が住む島( Brobdingnag )」では取るに足りないこの有害、空しい人間社会を、第3部「空を飛ぶ島( Glubbdubdrib )」では何の有益な利用もされない人間社会の科学を、第4部「Yahooの島( Houyhnhnms )」では人間社会が神の御心に従わず自ら存亡する事を、全体を通して人間社会の廃退が理に適っているとしている。 同じ時代に書かれたDefoeの「ロビンソン・クルソー1719年」が楽観的( Optimist )に対してSwiftの「ガリバー旅行記 1726 年」は悲観的( Pessimism )な航海物語になっている。

因みに、パソコンの検索サイト、「Yahoo」はこの著作の第4部「Yahooの島( Houyhnhnms )」から名づけられたと言われておりますが、今では日常用語として若者の間では「ならず者」を指して「Yahoo」と呼ぶようである。 一方、「Google」は米国の数学者Edward Kasner(1878-1778)と9歳の甥Milton Sirottaの会話の中で大きい数を何と呼ぼうと尋ねたら、「Googol」というのはどう? ということで、無限に近い数を「Googol」=10の100乗を単位とした。 ちなみに「Googol」=10の100乗の数は全宇宙にある原子の数より多い数で、「Google」は「Googol」の造語で、無限の情報が取り出せる事を意味している。

シュタール( Georg Ernst Stahl 1660 – 1734 ドイツ)

シュタールはドイツのAnspachで生まれた。 1683年にJena 大学の医学部を卒業し、1687年にDuke Johann Ernst of Sachsen Weimar の宮廷医師となる。 1694年から1716年までHalle大学の医学部教授の職に就く。 またBerlinに居城を構える、KingFriedrich Wilhelm I of Prussiaのお抱えの医師となる。

 化学者としては、フロギストン説の提唱者で燃焼化学の歴史の中で重要な一歩を築き、後世に名を残す。 フロギストン説は同じドイツの化学者ベッヘル( Johann Becher 1635 – 1682 ) が燃焼という現象は「何かが逃げていく」と考えていた。 それを受けてシュタールは、その「何か」をフロギストン ( phlogiston )「ギリシャ語で火の精霊」と抽象的でなく、正しいかまた正しくないかは別にして、1703年に強く提唱したことは、次の燃焼化学のステップ( milrstone )として重要な意義を持つ。

 物が燃焼する事を、我々は日常目の当たりにするが、観察(実証)の結果、炭に例えるなら、燃焼の結果、我々は白い灰になったと考えるが、シュタールは炭が燃えたのではなく、炭に含まれていたフロギストン なる物が熱により失せたとシュタールは科学者としての頭で考えた。

何故なら、炭ばかりでなく、木も、石炭も、紙も同じような現象が観察されるからで、そこに一般性を見出そうとした。 また別の例なら、空気中でボールを、木の壁、コンクリートの壁に向って投げると穴が無い限り、必ず手前に戻って来る。 我々は簡単に壁が有るから戻って来たと考えるが、科学者は、そのように考えずに、空気と壁の材質のインピーダンスの差が有るからという一般性を与えて説明する。 シュタールのフロギストン説は大化学者ラヴォアジェ( Antoine Laurent Lavoisier フランス)が1776年に「新燃焼理論」を確立するまで、この説は、シュタールの著書、1697年「Zymotechnia fundamentalis sive fermentalionis theoria generalis」に系統的、体系的に秩序立って説明されたので、18世紀の科学者からはほぼ1世紀に亘って歓迎された。

デフォー( Daniel Defoe 1660-1731 イギリス 貿易商、小説家 ) 

デフォーはLondonで生まれ、最初、寄宿学校に入り、その後Morton Academyに進ん
だ。 デフォーの家系は非国教徒の長老派プロテスタントであったため、イギリス国教会への宣誓をしない限りOxfordあるいはCambridge大学への入学は出来なかった。
 
デフォーは父親から牧師になることを勧めれたが、その道を選ばず、1683年頃の23歳までにそれなりの貿易商になった。 その時点では小説家になることは考えていなかった。 その後、Duke of Monmouthの軍に入り、James II世から王位を奪うことを考えたが、反乱は失敗に終わり、デフォーとそのグループは大陸での半ば逃亡を3年程強いられたが、その間JamesII世に対する批判のビラを配り続けたが成就しなかった。 

その後、また元の貿易商に戻ったが、1692年に倒産した。 そして転機が訪れ、もともと文才が有ったので、1701年に「 the True-Born Englishman 」という詩を著し、大変好評であった。 1719年に現在でも少年少女に愛読されている「ロビンソン・クルソー( Roinson Curusoe)」の著作をを残す。 ロビンソン・クルソーは実在の人物で、たまたまイギリスの航海士で海図作成者のWilliam Dampier ( 1652-1715 )に救出されたAlexandr Selkirkという船乗りでカリブ海で遭難し27年間、絶海の孤島での一人暮らしを強いられた物語である。

エドモンド・ハレー ( Edond Halley 又は Edmunnd Halley 1656 - 1742イギリス)

エドモンド・ハレーはHaggerston of Londonの裕福な石鹸製造業者の家庭に生まれる。 St Paul’s Schoolに学び、1673年にthe Queen’s College Oxfordに入学する。 卒業後、1676年に南半球の恒星を観察するために大西洋に浮かぶ孤島、St.Helenaに2年間滞在する。 Tycho Brahe( 1546 – 1601 デンマークの天文学者 )の星座標に、新しく341の恒星を書き加え、1679年にCatalogus Stellarum Australiumとして刊行する。 エドモンド・ハレーはRoyal Societyの会員に選ばれる。 
余談になりますが、イギリス領St.Helena島、当時は絶海の孤島で、大西洋、西アフリカ沖合い2000キロにあり、ワーテルローの戦( the Battle of Waterloo )いで破れたナポレオン( the Emperor Napoleon Bonaperte)が1815年流刑され、亡くなった島として知られている。 

1686年に、南大西洋の航海時に観測したデータをもとに、貿易風( trade winds )とモンスーン ( monnsoons )について、また気圧( barometric pressure )と海抜 ( height above sea level )の関係についても論文を発表している。  天文学者であったエドモンド・ハレーは、人生の多くを月の観測に費やし、重力、惑星の動き、特にKepler’slawsの仮説の証明に注力し、1684年に友人のIsaac Newtonに会うためCambridge大学を訪ね議論をする。 

Isaac Newtonは、既にKepler’slawsの仮説を数学的に証明済みで、その事を知ったエドモンド・ハレーは世に問うことを進言し、後に1687年に後世に残り、多大な影響を与える「 the Principia Mathematica Phirosophiae Naturalis 」を刊行する。 それに掛かる費用はエドモンド・ハレーが援助した。

 1698年から、Paramore号の艦長として、北緯52度から南緯52度の大西洋海域の地球磁場( terrestrial magnetism )を測定し、「 General Chart of the Variation of the Compass 」として著らわす。 そこで、地球磁場の北と地軸の北の間に傾き(偏角)の有る事を確認する。 この傾きをisogonicまたは Halleyan linesと呼称されている。 地球磁場は現在でも研究課題であるが、概ね、地球内部のマントルの対流に起因する電流(電子)の流れと地球の自転により磁場が発生していると考えるマントル対流(ダイナモ)説が支持されてるいる。 

また25000年ごとに北をさすN極と南をさすS極が反転することなど理解できないこと等も多々ある。 また、この狭い日本の国土でもHalleyan lines(偏角)は、北の北海道では10度、南の九州で6度と差がある。 現在、地球表面積の29%を占める5大陸も、海と陸地が作られた頃は現在我々が見る世界地図とは大きくことなり、マントルの対流により陸地が移動して現在のような形状および配置となっている。 ウエーゲナー( Alfred Wegener 1880 – 1930 )が唱えたプレート・テクニクス(大陸移動説)である。 実際、世界地図の南アメリカの東側とアフリカの西側をはさみで切り合わせるとほぼ同じ形状で当てはまる。 山口県の秋吉台のカルスト大地も珊瑚礁で、遠くフィリピンの方から移動してきたものと思われます。

 1703年に、エドモンド・ハレーはOxford 大学の地理学の第4代サビリア教授となる。 サビリア教授( Savilian professor )のサビリアとは、1619年にOxford 大学のSir Henry Savile ( 1549 – 1622 )が地理学( Geometry )と天文学( Astronomy )に限って設立したもので、その席についた地理学の初代は、Hnery Briggsで、天文学の初代は、John Bainbridgeで現在もその歴史は守られている。 また数学にも同じような席としてグレゴリ教授なるものがあり、1659年にEdinburgh 大学のDavid Gregory ( 1638 – 1675 )が設立した。

 最後に、エドモンド・ハレーの名を後世に残したのは、ハレー彗星を発見した事である。 エドモンド・ハレーは歴史書から、1456、1531、1607と1682年に現れた尾を引く星(彗星)が同じ彗星ではないかと考え、周期を計算し、今度地球に接近するのは1758年としましたがエドモンド・ハレー自身は1742年に亡くなっているので残念ながら見る事は出来ませんでしたが、実際に予言通り1758年に現れました。 ハレー彗星は太陽系の惑星以外で、固定周期を持って迂回してくる彗星(planet)の事で、周期は76年とされている。 

私の家でも 1986年に見ましたが、地球への接近度が僅かでしたので、天空に燦然と輝く尾を引くハレー彗星を期待し、望遠鏡まで用意して待っていたのですが、小さく輝きもなく大変残念でした。 また、史実を記した歴史書に見られるハレー彗星の周期は、摂動( 太陽また惑星の重力の影響により周期が変動する )により75 - 79年ですが、240年から紀元後1696年までは22回現れ平均77.1年です。

 その後、私たちが見た1986年までは7回現れ平均75.6年で、2134年に現れるまでは73年とされ、段々迂回周期が短くなるような気がします。 実際、長い期間、ハレー彗星は星屑を撒き散らしているのでいつかは無くなるのでしょうが、天文の事に無学な私が心配する事ではないかとは思いますが?
 
エドモンド・ハレーは1742年に亡くなり、ロンドンの南西St. Margaret’s Church に埋葬されている。

2006年05月28日

チイコ・ブラーエ ( Tycho Brahe 1546 – 1601 デンマーク )

チイコ・ブラーエは現在のスウエーデン( 1658年迄はデンマーク領 )、スカンデイナヴィア半島の南端のスコーネ( Skane )の高貴な家柄に生まれる。 中世デンマークはカルマル同盟( 現在の漁港:スウエーデンのKalmar slottで1397年に締結された )のもと、デンマーク、スウエーデンおよびノルウエーが共同体で大国として存在していたが、1523年にスウエーデンがこのカルマル同盟を離脱し、スウエーデンとの300年に亘る抗争が続いた時代背景の中であった。 現在のデンマークの首都コペンハーゲン( Copenhagen )はシュラン島( Sjaelland Island )に位置しますが、思い出されるのは8 - 11世紀に活躍したヴァイキング( Viking : 北の人 )と文豪シェクスピア( William Shakespeare )の著作ハムレット( Hamlet )の舞台となったエルシノア ( Elsinore )城( クロンボー城Kronborg Slot がモデルとされる)があることでも知られています。

チイコ・ブラーエは9歳でラテン語を学び、1959年、13歳でCopenhagen大学に入学し伯父の勧めもあり、法学および哲学を専攻し法律家になるべく勉強をする。 チイコ・ブラーエは大学で、いろいろと広く学ぶ内に、錬金術また天文学に興味を抱くようになる。 この時、チイコ・ブラーエの将来の方向を決定付ける出来事、太陽の部分日食( a partial eclipse of the sun )が1560年8月21日に起きる。 またこの部分日食はこの日に起きることが予測されており、それが実際に起きた事は、果敢な年頃のチイコ・ブラーエにとっては衝撃的で、これで天文学への道を選ぶ事になる。 チイコ・ブラーエはお金には不自由が無かった事、またラテン語を学んでいた事も幸いし、直ちにプトレマイオス著作の「アルマゲスト」Ptolemy’s Almagest(ラテン語で書かれた書物 Megale Syntaxis )を買い求める。 

Almagestには、惑星の年運行の暦( astronomical tables )が掲載されており、それはスペインのトレド( Toledo : Madridの南70km )で1252年にCastile( スペイン中央部 )の王でありまた天文学者のAlfonso X ( 1221 – 1284 )の元に50人にも及ぶ天文学者が集まり作製されたもので、Alfonsine tablesと呼ばれたいた。 Alfonso Xはヨーロッパ・キリスト教国にギリシャおよび東方オリエントから流れ込む膨大な学問書のラテン語への翻訳を専門に行う学校を設立した事でも知られる。 またチイコ・ブラーエは同時にコペルニクスの理論( Copernicus’theory )に基づいた最新の惑星の年運行の暦も買い求めた。

チイコ・ブラーエが生きた16世紀から17世紀の天文学者は大雑把に列記すると、
 Nicolaus Copernicus 1473 – 1543
Tycho Brahe 1546 – 1601
Galileo Galilei 1564 – 1642
Johannes Kepler 1571 – 1630
Jeremiah Horrocks 1619 – 1641
Sir Isaac Newton 1642 – 1727
 Edmond Halley 1656 – 1742

その後、ドイツ各地を旅し、さらにWittenberg、Rostock、Basel大学で学ぶ。 チイコ・ブラーエが20歳、ドイツのRostock大学で学んでいた頃、1566年に大学の教授の家でのクリスマスのパーテイで酒に酔い、学友のManderup Parsbjergとの口論の末、鼻の一部をだんびら( 広幅の刀:braoadswords )で削ぎ落とされ、生涯、その部分に銅製の義鼻を嵌めていた。 

チイコ・ブラーエは1570年にデンマークに戻り、1572年にカシオペア星団( the constellation Casisiopeia )に非常に明るい星を観測する。 この星は、他の星と違い幾晩、観測していても視差が変らないことから、かなり遠い所に位置する星であると推測する。 翌年に、この新しい星( new star )を小雑誌に( De Stella Nova )として刊行される。 現在ではSN 1572の名を持つ超新星( supernova )として登録されている。 この1572年の超新星の発見と1577年の彗星( 地球、月、惑星は時計周り、東から西に運行しているが)の逆行現象と強固と思われていた天球を通り過ぎて行く運行の発見が、チイコ・ブラーエに生涯、天文学者として生きていく確固とした信念を抱かせた。 

これ等を記述したDe Stella Novaを読んだデンマーク王( the King Frederick II )は、チイコ・ブラーエに、バルト海から北海に抜けるシュラン島とスカンデイナヴィア半島に挟まれた狭いカテガット海峡( the Kattegat strait またはsound ) に浮かぶ ヘブン( Hven )島を贈られ、その地にチイコ・ブラーエ自身が設計した天文観測所および実験室( Uranienborg : the Castle of the Heavens )をドイツの建築家が建設する。 天体観測用の測定器も、それに伴う度盛りも自身で行った。 チイコ・ブラーエは「観測は正確を期さないといけない」という信念のもと、まだ望遠鏡( telescope : ガリレオは望遠鏡での観測 )が無い時代で、肉眼では不可能と思われる微小視差で測定し、それは勤勉と忍耐のいる迂路であった。 

その後、デンマーク王は( the King Christian IV )に代わり、不運にもチイコ・ブラーエとは相性が悪く、測定装置また資料共々、1599年にボヘミアのPrague( 現在のチェコの首都 )に移住する。 幸いにして神聖ローマ法王ルドルフ2世( the Holy Roman Empeeror )の援助を受け、観測は続けられる事になる。 

積年のデータは膨大な量で、これをベースに新しい太陽系の理論を構築したく優秀な助士を探していた折、ケプラー( Johannes Kepler )に出会った。  チイコ・ブラーエは天空で常に位置を移動する惑星と常に天空で位置を変えない不動の恒星「天球に貼りついた」との二分論( dichotomy )の説明がつかず、恒星という天球の中心に地球が位置し、地球の周りを太陽が回り、太陽の周りを惑星、水星( Mercury )、金星( Venus )、火星( Mars )、木星( Jupiter )、土星( Saturn )が回っているという宇宙論を提唱し17世紀前半は受け入れられていた。  チイコ・ブラーエの宇宙論はAristotelian physics systemと1543年にCopernicusの提唱した太陽中心の惑星理論( the heliocentric planetary system )の折衷案であった。

余談になりますが、私は天文学者ではないので、外野から考えると、これほど天動説と地動説のいずれが正しいかの判断がつかなかったのは、地球には自転に伴う昼夜があり、昼間、惑星を含めた星の観測が出来ない事かと思います。 ほぼ無限の広がりを持つ宇宙の中では、太陽も地球も固定点で、問題はただ太陽と地球のどちらがどちらの周りをを回っているだけの事で、それが問題なのですが、私たちが生活している地球は確かに実感として太陽が地球の周りを回っている印象は否めない。  

しかし、アリスタルコス( BC310 – BC230 Aristarchus は地動説を唱えていた)が考えていたように、問題は取るに足りない質量の地球の周りを、巨大な質量の太陽が回っているか、また巨大な質量の太陽の周りを微々たる質量の地球が回っているかを考えた場合、Newtonの万有引力理論を待つまでも無く判断出来そうですが?  人間はもともと蒙拙く、思索「理性」が感性「感覚」(今、目の前で起きている事実)を越える事が出来ない動物である事は確かである。 地球が丸い球体であることも、感性の枠を越えるもので思索では理解し難い。 なぜなら今、生活している地球の裏側の世界は、人は逆さになっているのかと問われたら、巨視的にはまさしく逆さである。 巨大な地球の質量によりただ引かれているだけで、人は自分の脚で立っているのではないのです。 この事象も、思索が感性( 今、目の前で起きている事実 )を越える事が通俗な我々にはなかなか出来ない。 思索が感性を越えられ、180度の豹変が可能な者が世に言う天才と思われる。

チェコのプラハPrague に居を構えた2年後の1601年、チイコ・ブラーエは志し半ばにして亡くなり、ケプラーはチイコ・ブラーエの25年間のデータを引き継ぎ、後の「惑星の第一、第二、第三の運行法則」を発見することになり、チイコ・ブラーエの観測データは無駄ではなく、大いに貢献するものであった。 チイコ・ブラーエは実に偉大である。 後世の若い人達がケプラーは知っているがチイコ・ブラーエを知らないのは実に残念である。

チイコ・ブラーエの遺作としては以下が知られている。
「 De Nova at Nullius Aevi Memoria Prius Visa Stella : 新星の出現 」in 1573
「 De Mundi Aetherei Recentioribus Phaenomenis : 天界の新現象 」in 1588
「 Astronomiae Instauratae Mechanica : 天文学の観測装置 」in 1598
「 Astronomiae Instauratae Progymnasmata : 天文学入門 」in 1602

チイコ・ブラーエの死因は、毒殺説もあるが、宴会好きで酒による泌尿器官の治療薬に含まれる水銀中毒説とされている。 後にチイコ・ブラーエの髪の毛から水銀が多量に含まれていた事が確認されている。

ギルバート ( William Gilbert 1540 – 1603 イギリス )

ギルバートはColchester、Essex、Englandに生まれた。 1588年にSt.John’s College、Cambridgeで学び、1570年代にLondonで医学の修業を積み、医学の面で中世西欧の医学の第一人者であった。 1600年にRoyal College of Physiciansの学長となり、Queen Elizabeth 1世が1603年に亡くなるまでの従医を勤め、後もKing James Iに仕えたが、同年、ギルバートは疫病のペスト により、他界することになる。 

ギルバート が生前に残し研究資料、器具類他は母校のRoyal College of Physiciansに移管されたが、残念なことに1666年に起きたLondonの大火で消失することになる。 医者としての多忙の中、余暇( his spare time )に「電磁気学」の基礎を築いた偉人であった。

ギルバートが不思議に思い、思索した事は、琥珀が物を引き付ける力(静電荷)と磁石が物を引き付ける力(磁力)の違いは何かということです。 古代哲学者ターレスも琥珀電気( amber electricity )の事は知見しておりました。 琥珀の( amber )は俗名で、学名は ( succinite )です。 琥珀は、古代ギリシャ人(紀元前600年頃)が装飾品として用いており、着けている内に汚れてきて、拭けば拭くほど汚れがひどくなります。 この汚れ(埃)を引き付ける力、琥珀効果( amber effects )の事を不思議に思っていました。 

この現象が静電荷によるものと理解されるようになったのは16世紀になってからです。 一方、静電荷に対して磁石( agencia の石 )の磁力についての知識はさらに古代の紀元前3000年の頃から多くの人々の間にあったようです。
 
また磁石を現在のようにmagnetics と呼ぶようになったことについては、伝承として二つの説があり、一つは小アジアの羊飼いの少年の名前マグメシアとする説と、一つは磁石の産地ギリシャ北方のマケドニアのマグネシア地方で算出した事による説の由来があります。 

ギルバートはいずれの力も物を引きつけるという、現在では静電荷と磁力と呼ばれているこの二つの力の違いを明らかにするために、磁鉄鉱(lodestone、magnetic iron ore)の特性について、17年間で知り得た知識はDe Magnete ( theMagnet ) として1600年に著作されました。 この著書は当時の天文学者、Johannes Kepler、Galileo等に大いに興味をもたれ、かつ西欧中に磁気と電気の現象を解明する科学者の成書として大きく貢献しました。 

ギルバートはその著書「De Magnete」の中で琥珀を毛皮で摩擦すると静電気が起こることは、かなり古くからわかっていましたが、ギルバートは摩擦による帯電(電荷)現象は琥珀に限らないこと、また琥珀以外にも帯電(電荷)する物のあることを発見しました。 また磁石には極性があり磁石の極性が地球の極性と深いつながりがあるとの仮説を立て、実際の地球に見立てた小さな地球を実験室に作り、実際の地球と同じ磁界が存在していること、地球は24時間で一周するが、それに伴い、地球を覆う磁界も一周すること、また熱を加えていくと磁性現象が消えることを発見しました。 

これらの現象を現在の自然科学探求のための実験と同じ手法で実証づけた最初の科学者でした。 なんと云ってもギルバートの最大の功績はDe Magnete ( theMagnet )に書かれているように磁気と静電気「琥珀の物を引きつける現象(amber effect)」を明確に区別しており、完全な磁気現象学を発展させ確固なものとして基礎を築き上げた点かと思われます。 琥珀はギリシャ語でelectronと呼ばれ、電気をelectronと命名したのはギルバートです。 

ギルバートが生きた時代は後期ルネッサンス期で、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランにより、大航海時代が終わり、コペルニクスの「天球の回転」の著作が出版され、天文学者、Johannes Kepler、Galileoが現れた同時代の科学者で、地球、自然が科学的に明らかになり、そして世界は大航海時代に入っており、航海の安全を非常な正確さで約束する磁石「羅針盤(compass)の磁針として」は航海装置の数少ない道具としての役目を果たした事は大変大きな成果と云わざるをえません。 

余談になりますが、琥珀は日本では岩手県の久慈鉱山で採掘される琥珀が有名ですが、鉱物ではなく樹枝液が長い年下(中生代白亜紀約9000万年前)を掛けてノジュール(団塊)状堆積岩となったものです。 さらなる余談になりますが、日本の国歌「君が代」は10世紀初頭に編纂された勅撰和歌集「古今和歌集」の詠み人知らずの雅歌で、さざれ石の巌をとなりてのくだりも、人によっては岐阜県に多く産するさざれ石という人もいますが、「さざれ石のみが巌をとなるのでなく」、私は石がさざれて(風化)いき長い年月をかけて巌をとなると解しています。 今では子供たちも知っている水成岩、深成岩の成り立ちかとも思います。 またある某紙に岐阜県に行けば「さざれ石」を見られるような記事が掲載されておりましたが、なにも岐阜県まで行かなくとも文部省の中庭に置かれており誰でも見学できます。

ジョン・ネーピア ( John Napier 1534 – 1617 イギリス 数学者、科学者 )

1614年に最初の対数表を作成する。 ネーピアは エジンバラ( Edinburgh、England )で生まれる。 幼少の頃の事は知られていない。 13歳でセントアンドリュース大学で宗教学を学ぶ。 ネーピアは生来、厳格なプロテスタントであった。 ネーピア自身にとって最も大切な業績は1593年に著作した 「 the Plaine Discovery of the Whole Revelation of St. John 」聖書の黙示録である。

ネーピアはセントアンドリュース大学で数学を学んだが、むしろ興味があったのは、イタリア、ネーデルランド、ヨーロッパ各地を訪ね古典文学に触れる事にあった。 ネーピアは数学を自身の趣味として身に
つけた。 ネーピアの対数( logarithms ) の研究はGartness、Edinburgh北西の片田舎で過ごした時に執筆された。 ネーピアのラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」は1614年に出版され、2年後の1616年にEdward Wrightによって英訳された。 この偉大な発見「logarithms 」の背景また思索の過程については、ネーピア自身の序文に書かれている。 

ネーピアは1617年に一生を終えるが、この「logarithms 」について、当時 the Gresham College 、London ( 25年後に the royal society の誕生の地)で幾何学の教授をしていた ヘンリ・ブリッグス ( Henry Briggs )は天文学に興味を持っており、天文学における軌道計算のための、科学者の無味乾燥な無駄な膨大な計算に、この「logarithms 」が救世主として大きな役割をなすことを見抜いていた。 
 
ブリッグスは1614年にラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」を読みに強い衝撃を受けたが、ブリッグス自身も独立に対数を見出しており、1602年に「 A Table to find the Height of the Pole 」をまた1610年に「 the Tables for the improvement ofNavigation 」を著していた。

ブリッグスは1615年、1616年と2度、London からネーピアが住むEdinburgh まで、今では汽車で4時間の所を、馬車で4日掛けて訪問している。 1度目の訪問の時にはブリッグスはネーピアの家に1ヶ月滞在し、議論したことは対数の「底」の問題で、Log1 = 0 でなく、Log10 = 1に改めるべきではないかに集中した。 

ネーピア死後の1617年にLondonでブリッグスは「 Logarith morum Cilias Prima 」を著し、また1624年に「 mathematical Treatise Arithmetica Logarithmica 」を著した。 ブリッグスは1620年にユークリッドの「原典」( the Elements )の英訳解説書6巻を Oxford出版社から刊行している。 

このネーピアの対数はケプラーの惑星軌道計算、ニュートンの万有引力の法則の発見に大きな貢献をした。 200年後のラプラスもこのネーピアのラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」を数学史に残る金字塔と賞賛している。

コペルニクス ( Nicolaus Copernicus 1473-1543 ポーランド )

コペルニクスはPolamdのThornで裕福な銅販売業者の家庭に生まれ、自国の最高のクラクフ( Krakow )大学で数学、哲学、天文学を学んだ。 さらに1496年から都合2回、6年間、ボローニア(Bologna)大学でアリスタルコス( Aristarcus )の唱えた地動説(太陽中心説)を知り、またPadua大学で医学を、そして Ferrara 大学で法律を学ぶ。 その後、故郷のPolandに戻って聖職(canon)についたが、フラウエンブルク( Frauenburg )教会に付属する天文台で天体を観測しているうちに、永い間暖めてきた天文学の研究に心が動かされたいった。 

それまではプトレマイオスの天球論「アルマゲスト」が天文学を支配していた。 天球( the celestial sphere )とは、金魚鉢のように丸い球面を考え、一番上界、恒星が位置する不動の恒星天球を想定し、その下界に太陽、地球、月、他の惑星などの天球を与えた。 恒星天球では星座は球面に貼り付けられており、星座は天球ごと回転するが、星座を構成する星はお互いの位置を保つ、すなわちあまりにも遠くに有る為、恒星の年周視差があまりにも小さく観測できない。 

地球からの惑星を観測すると惑星の動きは一様でなく不規則で、この惑星のふらつき(惑う)、特に地球の内側を動く水星と金星などの惑星が順行( direct or prograde )したり、逆行( retrograde )したりする。これを説明するためにプトレマイオスは、アポロニウス( Apollonius Pergaeus B.C.225頃 - ? )の考えた周転円( epicycles 地球を中心とした円軌道上の一点に中心を持つ小円)を導入する。 これにより惑星が順行したり、逆行したりする事を説明した。

また惑星は恒星天球上を時には早く、時には遅く運行する。 これを説明するためにプトレマイオスは、離心円( eccentric circle 地球から離れた位置に惑星の円運動の中心とする大円)を導入する。 これにより惑星の動きを天球界に投影した動きは説明できるとした。  こうした周転円と離心円なる複雑な仮定を導入し長年かけた観測データをもとに惑星の運行を予測した。

コペルニクスは挑戦したのである。 今まで2000年間支配してきた「天動説」から「地動説」への180°の豹変( 世に言われるコペルニクス的転回:Kopernikanische Wendung )は天才には理解する余地が残されていたとしても世俗凡人には、教会という世俗の宗教上のモラルを心底から覆すことであり、また日常の生活で朝、日が昇り、夜、日が沈むという事実は、「天動説」が「地動説」より感覚的受け入れやすい常識( common sence )となっていた。

しかし、コペルニクスはアリスタルコスの唱えた地動説(太陽中心説)を知ってはいたが、神がそれほどまでに複雑な事を創造するかと疑問に感じていた。 まだ地球の月以外に衛星を持つ惑星は、ガリレオによる木星の衛星の発見まで、知られておらず、もし月の周りを回っているように、地球も太陽の周りを回っているとする太陽中心説は、コペルニクスは完全理論者( perfectionist )であるがため大胆にはまた確認するまで早急には発表する事は出来なかった。

ただ、コペルニクス自信は、この「地動説,太陽中心説 sun-centered formulation of a heliocentric thery of the solar systems 」によれば、つぎの二つの事柄、すなわち惑星の逆行( Retrograde Motion )と惑星の明るさの変化( Varying Brightness of the Planetes )については明瞭に説明がついた。 前者については太陽の周りを回る惑星の円軌道の大きさが違うので地球から見た惑星は時は順行したり、逆行したりする。

また後者については地球から惑星の距離が離れた場合は太陽からの反射光が弱く、近づいた時は太陽からの反射光が強いため、惑星は明暗がある事も理解していた。 これらを纏めた地動説理論の綱要を1514年に「コメンタリオルス」( Comment-ariolus )という小冊子にしクラクフ地域の天文学研究者仲間に送る。 それから30年をかけ、世に「天文学の大改革 Copernicus De Revolutionibus orbium coelestium 」と呼ばれる、大書:天球回転論「 On the Revolutions of the Heavenly Spheres 」を書き下ろしたが、中世のスコラ哲学者との論争を避けるために、「コメンタリオルス」の発表から30年後の1543年に同郷の若き天文学者レテイクス( George Rheticus 1514-1574 )の出版への勧め、また知人の神学者オジアンダー( Andreas Osiander 1498-1552 )の助力により印刷が完了し、コペルニクスの死の直前に手元に届けられた。

この書には、ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦の際に1年の長さを365.2425日とした観測値が記されている。 また後の世にテイコ・ブラーエが「地動説」を否定したのはコペルニクスが恒星の年周視差を測定していない事が最大の理由であるが、恒星の年周視差は1838年にベッセル( Friedrich Wilhelm Bessel 1784 – 1846 )が発見するが、はくちょう座61番の年周視差が0.314秒でコペルニクスの時代には望遠鏡も無く基本的に測定不可能であった。

この著作は、次世紀に、Keplerの衛星の楕円軌道の発見、Galileiの運動の法則、Newtonの万有引力の法則の発見への道を開く事になる。

マキアヴェリ ( Niccolo Machiavelli 1469 – 1527 イタリア )

マキアヴェリ は フロレンス (Florene、Italy )で生まれ、大学にはいかず、父親の書斎で勉学する。 また生涯をイタリアのフロレンスで過ごす。 マキアヴェリは15世紀から16世紀にかけてルネッサンス期を、イタリアが小国分立状態のフロレンス、ヴェネチア、ミラノ、ナポリなどが勢力争いをしており、外国からは強大なスペイン、フランス、ドイツ等の大国の領土的野心の対象となり、内憂外患の大混乱の時代であった。 イタリア・ルネッサンスも一気に崩壊し、終焉を迎えようとしていた。 こうした時代に生まれたマキアヴェリ は 1498年から1512年まではイタリアの分立国家フロレンスの存亡かけた外交と軍事のために政庁書記官として半生を捧げ、職を辞してからの1513年から1527年まではフロレンスの南10kmに位置する父親の所領 クッシーナ(Cuccina ) で古典研究に没頭し、1513年に小論文「君主論」( the Prince )、1517年に「政略論」( the Discourses on Livy )を著す。 

マキアヴェリが前半生をイタリアの分立国家フロレンスのために政庁書記官として働いた見聞と経験を、また静かな人生の晩節を書斎で勉強した古代ローマの古典を研究をもとに書き上げた論文が「君主論」と「政略論」である。 マキアヴェリ は ルネッサンス期における多くの思索家の中では、最も輝いていたが、一面僅かに悲壮な人物であった。
 
「君主論」でマキアヴェリが述べていることは、一国を担う君主の国家意識の優柔不断さと危機感の欠如である。 国家の存亡の危機にあっては、政治目的の前においては道徳も宗教も一切意味をもたず、人間的倫理思考に甘えず無機質的(非人間的)政治思考に切りかえるべきであるとし、いわゆる後の世に「マキアヴェリズム」と呼ばれる近代政治学の祖となる名著となった。

「政略論」では古代ローマ共和制を引き合いに出し、広大な版図のローマ帝国が堕落・停滞・衰退しなかったのは、古代ローマ」の政治体制が共和制であった事が最善であったとしている。 どのような政治体制であろうが、常に民衆と貴族との間には意思の疎通があり、争いは絶えない事は歴史が示している。それゆえ古代ローマの政治体制では、調停役として民衆と貴族の間に護民官をおいた事、ローマ法の制定・厳格公平な執行をした事、また民衆の凶暴・愚醜を神の尊厳の元に鎮めさせる宗教を基調とした国家を作り上げた事としている。

生まれ故郷のクッシーナ ( Cuccina ) で清濁併せ呑む現実の政治から離れ,生きてきた半生を静かに振り返りながら、どのような思いでこの二つの論文「君主論」と「政略論」の著作にあたったか知る由もありませんが、マキアヴェリはフロレンスをこよなく愛していた事、マキアヴェリの死後、君主制のフロレンスが3年後に滅亡したことを考えると、マキアヴェリは真の「共和主義者」であったこと、また真の現実主義的政治理念「マキアヴェリズム」を抱いていた事が伺い知れる

ジョヴァンニ・ボッカッチオ( Giovanni Boccaccio 1313 – 1375 イタリア )

ボッカッチオの生地は不明確ではあるがイタリアの中央部トスカニ( Tuscany :イタリア・ルネサンスの発祥の地)のセルタルド( Certaldo は緑のオークの森で覆われた高地を意味する)に私生児として生まれ、トスカニのフローレンス( Florence )で育った。 母親の名も定かでない私生児として生まれたにも係わらず、性格は高貴で、著した作品からは中世騎士道的な、気高く、慎みが滲み出ている。 
 
主な著作としては
1341年に散文と詩が併記された「 Ameto 」
1342年に寓意的な詩「 Amorosa visione 」
1343年に「 Fiammetta 」
1343年に「 Ninfale fiesolano 」
1349年に後世に残る「 Decameron 」書き始め1352年に書き終える。
    
黒海のクリミア半島北方、現在のウクライナ( Ukraine )に7世紀から栄えたハザール王国が1243年に蒙古のキプチャク汗国に滅ぼされたが、一部がクリミア半島に残り、城壁を築いたカッファ(現:フェオドシアFeodosiya )の港町で盛んにジェノヴァ、ベネチアと海洋貿易を続けていた。 カッファの町では当時ユダヤ商人により持ち込まれたペスト(黒死病 Black death )が広まり、時同じくして、1346年にキプチャク汗国が再度攻め入った事により、その被災から海路を逃げ出した一部のユダヤ商人がコンスタンチンノーブル、シチリア、サルジニア、ジェノヴァと寄航し、ペスト菌が西欧へと拡大されていく。 このペストの感染域はヨーロッパ全域、西はイベリア半島、北はイギリス、スウーエデンまで広がり、一説には、ヨーロッパの全人口の1/3が減少し、社会に深刻な打撃を与えたと史実は伝えている。
 
ボッカッチオが住むフローレンス( Florence )も1348年にペスト病の大打撃を受け、1351年までの3年間に市民の3/4が亡くなったとされている。 1349年に書かれたデカメロン( Decameron :ギリシャ語のDécaは英語でTenを、hēméraはdayを意味し、十日物語とも言われる)は、このペスト病の蔓延する時に、3人の男と、7人の女が、邸宅に閉じこもり暇つぶしに10人が10日、一人1話、合わせて100話が綴られた散文である。 好色文学の祖とされるが、内容はそれ程のものではなく、ボッカッチオは聖職者の恋物語などを綴ってはいるが、この悲惨なペスト病で打ちひしがれた世間を勇気付ける所に主題を置いている。

ボッカッチオは1350年にフローレンスで、1351年にパウダでフランセスコ・ペトラルカ( Francesco Petrarca 1304 – 1374 )に会い、親交を結びまたペトラルカを師と仰ぎ、詩の創作に情熱を注ぐ事になる。 ボッカッチオはペトラルカの教えによりダンテの叙事詩「喜劇 ( La Commedia )」を大学で講義し、その素晴らしさを世に広めました。 またボッカッチオはこのダンテの喜劇 ( La Commedia )」を神聖なる書として「 神 Divina 」を付与し「 神曲 ( La Divina Commedia ) 」として後世に残ります。
     
ボッカッチオは45歳前後でギリシャ語を勉強し、試みとして、イリアス( Iliad )、オデユツセイア( Odyssey )で著名なホメ-ロス( Homer )、多作な悲劇をを書いた特にトロイの女( Trojan women )で著名な( エウリピデス( Euripides )、プラトンの教えを忠実に実行した教育者のアリストートル( Aristotle )等の著作を翻訳している。 またボッカッチオは1365年に住み慣れたフローレンスを離れ、ナポリ、ベニス、パウダと旅に出るが、1374年にパウダでペトラルカの訃報を知り、叙事詩「 the Rime 」を捧げる。 

ボッカッチオもペトラルカの死の翌年1375年に生まれ故郷のセルタルドで帰らぬ人となる。

マルコ・ポーロ( Marco Polo 1245 – 1323 イタリア )

マルコ・ポーロは父が貿易商を営む高貴な家系で、ダルマテア( Dalmatia )のクロツア( Curzola )島( 現在のクロアチア西岸アドリア海に浮かぶ )に生まれ、地中海貿易の中心的な拠点をなすベニス( Venice )で育った。 マルコ・ポーロは、当時としては普通の教育を受け、ラテン系の教会で「聖書」、「神学」を学ぶ。 幼少の頃は、「博物」の中でも植物、動物などに興味を持っていた。

マルコ・ポーロが6歳の時、父と伯父は第1回目の東方への旅、Cathay( China )に赴くが、ベニスに戻った時には15歳になっており、母親は既にこの世にはいなかった。 父と伯父は2年間はベニスに留まっていたが、その後、マルコ・ポーロを連れ3人で東方への旅をする事になる( 1271 – 1295 )。 東方への旅のルートはアルメニア( Armenia )、ペルシャ( Percia )、アフガニスタン( Afghanistan )、パミール( Pamirs )高原を越え、現在語られる絹の道 ( Silk road )を辿り中国へと向う。

一行は1275年に元の大都(現在の北京)に苦難の末、辿りつくが、一行に加わっていた2人のドミニコ修道士は恐怖のため途中で逃げ帰った。 元のフビライ・ハーン( Kublai Khan )は一行を歓迎し、特にフビライ・ハーンは若いマルコ・ポーロに礼をつくし、17年間、側近の外交官として重用した。 

1292年に帰国の途に付くが、陸路は大変なので、海路とし、泉州からマレー半島を迂回し、インド洋を海岸沿いにイランのイルハン( Il Kahn )朝を経て、1295年にベニスに帰還した。 帰国後1298年のベネチアとジェノヴァ( Genoa )との海戦で捕虜となり、( Genoese prison )で知り合った翻訳家のルステイケロ( Rustichello「アーサー王伝説」を翻訳 )がマルコ・ポーロの東方への旅に興味を示し、マルコ・ポーロが口述し、ルステイケロが筆記し1299年に著した書が「世界の記述 the Description of the World 」で日本では「 東方見聞録 」で知られている。

この書をジェノヴァ( Genoa )の船乗りコロンブス( Columbus )が熱読しており、その中で黄金の国、日本( 書物の中ではCipangu )に興味を持ち西回りでジパング( Zipangu )への大航海に乗り出す事になる。 また当時の人達から「 東方見聞録 」の内容が大言壮語であるためマルコ・ポーロは「嘘呼ばわり」されたが、自身は旅で見た事の半分も話していない「 I have only told the half of what I saw ! 」と語っている。 また帰国後はDonata Badoerと結婚し3人の娘に恵まれ、1324年70歳で他界するまで幸せな日々をベニスで過ごした。

ただ、この書は当時、貿易で行き来していた商人達の話を纏めたのではないかとの説もあり、根拠としては当然書かざるべき筈の事柄が無いこと、また当時の元の暦書、通史にはマルコ・ポーロの記述が無いことに不自然さがある事に拠っている。

トマス・アクイナス( Tomas Aquinas 1225 – 1274 イタリア )

アクイナスはイタリアのヌルシア( Nursia )のナポリ近くのロッカ・セッタ( Rocca secea )城で生まれる。 1231年、6歳から14歳まで、モンテ・カシーノ( Monte Cassino )山のベネデイクト修道院に預けられ、そこでの共同生活を送る。 モンテ・カシーノ山はローマの南130kmに位置し、ベネデイクト修道院はその標高520mの岩山の頂上に聳え立つ。 ベネデイクト修道院はベネデイクト( St.Benedictus 480 –543)がスピアコ( Subiaco )での3年間の山中での修業の後、隠遁生活で得た「戒律( Benedictine Rule )」の実践のために529年に設立した。

日本にも1952年に東京麻布に、また北海道-札幌の他、数箇所で布教を続けている。 アクイナスはベネデイクト修道院の「戒律」のもと13年間の厳しい共同生活を終え、1239年にナポリ大学で、倫理学、修辞学、算術、幾何学、語学、音楽、天文学という当時の教養7学科を修める。 ナポリ大学はボローニアのドミニコ会の修道士が設立した学校で「スコラ学」の殿堂であった。 アクイナスの苦悩はベネデイクト修道院の「戒律」とドミニコ会の「スコラ学」に挟まれた形となるが生涯を通じてドミニコ会での研究、著作また学生への講義に身を置いた。

ドミニコ会を設立した聖ドミニコはスペインのブルゴス県( Burgos )、カレルエガ村( Caleruega )で1170年に生まれる。 聖ドミニコの教義は「自己の全存在を、愛を持ってイエスに捧げ、イエスの意図する真理を探究、伝承」するとされる。 1215年フランスのツールーズ( Toulouse )にドミニコ会「説教者兄弟会」を設立した。

アクイナスは中世最大の神学者、哲学者で、パウロやアウグステイナスと並び「天使的聖人」とされ、短い49歳の飛天までに無数の本「注解」を著したが、何と言っても全精力を絞って著した「対異教徒大全( Summa Contra Gentiles )」と「神学大全( Summa Theological )」とは現在の百科辞典にも相当する大書である。 「神学大全」は3部からなり、1部の神( God )、2部のエチカ( Ethics:倫理 )、3部のキリスト( Christ )から成っており、「対異教徒大全」を踏み絵としてさらに洗練された著作に昇華している。 また「神学大全」の「大全」とは体系化を意味し、神学の「大全」と呼称される書は、他にもあるが、単に「神学大全」というとアクイナスのこの著作を指す。
 
アクイナスの著作は大きなアルキメデス哲学を底流としており、アルキメデス哲学をあらゆる角度から1500年に亘り継承するスコラ学を基調音としている。 スコラ学の発祥期は1000 – 1250年、隆盛期は1250 -1350年で、スコラ学は学校( Scolaticus )に由来し、ある特定の学をさすものではなく、ある学を論理的方法による学習する事を意味する。 その学が哲学であるならば「スコラ哲学」、神学であるならば「スコラ神学」と呼称し、それぞれの学をスコラ的に学ぶ事になる。
 
アクイナスは、「資料」と「形相」とを併せ持つ蒙なる人間が究極の「真理」という高見に達するためには、「神的な啓示」に拠る「神学」と「理性」に拠る「哲学」を必要とし、それ故、「神学」と「哲学」は切り離せないとものと考え、あくまで「信仰」の対象「神」の存在を証明する「神学」と「理性」の根拠となる「哲学」の融合、両立可能性に「命題」を置いている。 

アクイナスの大書「神学大全」は今では色褪せたものとされているが、17世紀のデカルト、18世紀のカント、19世紀のショーペンハウエル、ニイチェ等の近代哲学に至るまでは「聖書」と共に永きに亘り、思想史「神学、哲学」の架け橋としての大河であった。

アクイナスは1274年の第2リヨン公会議へ出席するために、ナポリからリヨンへ向ったが、その旅の途中で病を患い、アクイナスはドミニコ会の修道院での死を望んだが、ベネデイクト修道院のシトー派のサンタ・マリア修道院で亡くなる。 シトー派とはベネデイクト修道士会が1098年にサンタ・マリア修道院を、フランス・ワインの産地、ボルドー(Bourgogne)のシトー( Citeaux )村に建設した事に由来する。

ロジャー・ベーコン ( Roger Bacon 1214 – 1294 イギリス )

ロジャー・ベーコンはロンドンの西130kmコーンウオール( Cornwall )半島の付け根サマーセット( Somerset )州のヨーヴィル( Yeovil )の近くの村で生まれる。 生まれた時代背景は国王Johnの悪政の最中で、フランスとの度重なる戦争で大陸の領土を失い、また王侯貴族の戦費の負担も重なり、国王John(在位1199-1216)と貴族および宗教界(フランチェスコ派及びドミノコ派)との政治的争いが絶えなかった。 こうした状況に王侯貴族の不満に終止符を討ち、双方の歩み寄りの和解案として1215年にマグナ・カルタ(大憲章)を制定した。 それは国王Johnが亡くなる1年前で、その後、悪政、失政で名高い、国王Johnの息子、Henry III(1207年生まれ、在位1216-1272)が9歳で国王の座に就く。 注)マグナ・カルタは前文と63か条からなるが、その後、一部が修正されたが上手く機能せず、忘れられた存在となったが、イギリス憲法の底流には、前文と本状の一部が形骸化された形でイギリス憲法の成文として残された。

ロジャー・ベーコンは、こうした政情不安な時代の内に過ごす。 ロジャー・ベーコンはフランチェスコ派に属し神学、スコラ哲学を学ぶ修道士でした。 当時は、大陸のみならずイギリスにおいてもアリストテレス的哲学、科学は、フランチェスコ派、ドミノコ派、その他の修道会で発展してきた。 大陸ではトマス・イグアナス( 1225 – 1274 )が活躍していた。

ロジャー・ベーコンはオックスフォード大学、後にパリ大学で学び、アリストテレスの自然学を継承していた。  ロジャー・ベーコンは、もともとはスコラ哲学者で「抽象的な議論に抽象的な議論で論争する」学理的な学問の道を歩んでいたが、後にアラビア科学を学ぶ事により経験( empiricism )を重んじる経験主義者となった。 一方「資料」と「形相」の相互関係に近代的な科学的手法( scientific method )を導入し、イギリスにおける物理、科学の分野での先駆けとなった。 今日、「近代科学の父」とも、また、そのあらゆる分野に於ける知識の豊かさ、深さから当時の人達からは「奇跡的博士( Doctor Mirabilis )」とも呼ばれている。 

ロジャー・ベーコンは当時の哲学、数学、医学、神学、法学その他もろもろ分野の学問が、イスラムの世界から西欧に流れて来ていたので、語学の面でもラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を学び、過去に翻訳されていた学術書の間違いを数多く指摘している。

著作としては1267年に「大著作( Opus majus ) 」、「小著作( Opus minus )」と1268年に「第三著作( Opustertium )」を著した。 特に、大著作は1266年にクレメンス4世法皇の進言により、数学、物理学、哲学、論理学などを一纏めにした、今で言う百科事典的な大書を著した。 そのダイジェスト版が小著作で、後に追加として第三著作を残した。

ロジャー・ベーコンは現在の望遠鏡、顕微鏡、火薬、飛行機、自動車、汽船、潜水艦などを幻想しており、周辺科学が整わないので、想像の域を出ませんでしたが、直観力には優れており、未来社会に対する科学的な啓示にはただただ感心するのみです。 光学の研究などでは、後のニュートンの光の屈折理論には400年前にある程度近い線まで辿り着いていました。
 
ロジャー・ベーコンの晩年はフランチェスコ派内の揉め事(神学論争)で異端とされ1278年から14年間、パリで幽閉され、1292年に同郷の貴族の助力により解放されるが、2年後の1294年に亡くなる。

レオナルド・フィボナッチ ( Leonardo Fibonacci 1170 – 1250? イタリア )

フィボナッチの生地はイタリアのピサ( pisa )、生没年は定かではない。 フィボナッチが生まれ、育まれた12、13世紀のヨーロッパは、暗黒の中世と言われた蛮族からの襲来また国内の分裂から解き放たれ、社会的にも、政治的にも、文化的のも幾分の明るい兆しが見られ、農産物の増産、人口の増加、商業活動の活性化が進み、まもなく訪れる技術的、工業的、化学的な発展の足音が聞こえてきそうな気配の時代であった。 また、十字軍( Crusaders 1096 – 1290 )、好奇心に溢れ、外の世界に憧れる商業を営む人達による東方世界文明への接触が試された時代でもあった。 

フレデリック2世( 1194 – 1250 )は僅か2歳にして、1196年には、フランクフルト( Frankfurt am Main )でドイツの王位( King of the German )に就き、1212年にローマの王位( King of the Romans )、1220年から1250年まで神聖ローマ帝国の皇帝( Holly Roman Emperor在位:1220 – 1250 )、1198年から1250年までシシリーの王位( King of the Romans )に就く。 フレデリック2世はあらゆる分野の学問を奨励し、特に数学と科学には興味を示していた。 当然、フィボナッチの卓越した数学に興味を抱き、フィボナッチはフレデリック2世にピサで謁見している。

こうした状況の中、12世紀末までには、教皇と神聖ローマ法王とのいざこざも無くなり、多くの独立共和国が成立した。 中でも、ピサ共和国は小国ではあったが、海洋に漕ぎ出し商業国家としてまたキリスト教文化とイスラム文化の交流の上で重要な役割を演じる。 

フィボナッチの父親はピサで皮革の商いをし、またアルジェリア( Argeria )のブギア( Bugia )で税関使をしていた。 フィボナッチは父に随いて、幼い時から北アフリカのイスラム世界を旅をしていた。 父からは商売の仕方、計算の仕方を教わっていたが、フィボナッチ自身は、仕事の合間をぬってアラビア世界の代数学を独習していた。 

アルジェリアは北アフリカの( マグレブ Maghreb: 日の沈む、西方の)諸国 の一国で、現在でもバッグ、本の装丁に使われる原材料のなめし皮を加工し輸出している。 ピサ、フィレンツエ、アスコリ( Ascoli )にはバッグ、靴などの高級商品のメーカーがあり、イタリア中部の町、アスコリにはTom Tomの商品名で知られるバッグ・メーカーがあり、またアスコリと言えば、若い人にはサッカーの名門、1898年に創立されたアスコリ・カルチョ( Ascoli Calcio )、セリエBが活躍している事で知られている。

フィボナッチは30歳、1200年の頃、旅に終わりを告げ、今まで身に着けてきた代数学の著作を心掛けるようになる。 以下の著書を記述しています。
Liber Abbaci ( The Book of Calculation ) 1202 年
Practica Geometriae ( The Practice of Geometry ) 1220 年
Liber Quadratorum ( The book of Square Numbers ) 1225年
Flos ( The Flower ) 1225 年

私達の日常の生活に係わりのある書として、特にLiber Abbaci「そろばん(算盤)の書」が知られています。 15節の「整数の加法」に出てくる「うさぎの出生率」を話題として書かれている奇妙な数列(下記)は、その神秘性と広範な応用性から、後の世の17世紀のフランスの大数学者フェルマー( Pierre de Fermat )は整数論( number theory )として継承発展されていく事になる。
     1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144
何の代わり映もしない、この数列は「フィボナッチ数列」として知られている。 この数列の規則性は3項以降は、前の2つの項を加算した値となっている。 例えば、8は3と5を加算した値、89は34と55を加算した値となっている。 このように作られている数列の各項の並びは、いま一つの項、例えば、55を34で割ると、55/34 = 1.6176、また144を89で割ると、144/89= 1.6179、、、、、で限り無く( 1 + √5 )/2 = 1.618033989に近づいて行く( 収束 )。 この値の比率1 : 1.618033989は、名刺、ハガキ、コピー紙等の横と縦の比率で、ギリシャの時代から、美しい比率とされ、一般に黄金分割比として知られている。 ギリシャのパルテノンの神殿、楽器バイオリンの形状比なども例に漏れない。
 
この「フィボナッチ数列」1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144 の内2 3 5 8 13 は音楽の美しさの秘密とされ、ピアノのオクターブ( octave )は13音( notes )で構成され、また白鍵8音階( scales )と黒鍵5音階で構成され、特に黒鍵は2音と3音で構成されている。 それゆえ、ベートーベン、モーツアルト、ドッビシーの音楽に限らず、どの楽章の組み立てを分析してみても、全曲を通して、この「フィボナッチ数列」に基づく和音( chords )で構成されていると言います。

また、この「フィボナッチ数列」1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144は動植物の生体の成長にも当てはまり、ここで樹木の下から上へと伸びる状態を絵に描いて見て下さい。 地上からまず生えた木が最初2つに分かれたとします。 Yの字型になります。 木は土中から栄養と水を吸い上げて育ちますが、分かれた枝の両方に均等に分配する事はなく、左右どちらかに多く分配します。 仮に右の枝に多く分配をすると右側がYの字型に2本になり都合3本になります。 また暫く成長すると、左側がYの字型に2本になり、右側の2本の内どちらかが2本に枝分かれしますので、この段階で都合5本になります。 引き続き同じように枝分かれを続けると、8本になり、次の段階では13本になります。 この枝分かれの状態2 3 5 8 13 は紛れも無く「フィボナッチ数列」になっています。  植物の木ばかりでなく「松ぼっくり」の種子も「ひまわり」の花弁も、よく観察すると「フィボナッチ数列」になっているようです。 またフィリッピン海溝の深い所で生息する「オウム貝」も死んで、黒潮に乗り、鹿児島、宮崎辺りの海岸に流れ着きますが、この貝の成長も貝殻の大きくなる様子は、2 3 5 8 13 と「フィボナッチ数列」的に成長します。 同じような太さで成長はしないのです。

さらに、Liber Abbaci「そろばん(算盤)の書」の8節の「商品の相場」に出てくる理論も金融の相場では、「フィボナッチ数列」と「エリオット波動理論」の組み合わせは欠かせないものです。 相場の乱高下する場合、どこで押すか引くかする場合の判断に困った時には、前述の1.618から1.0を引いた0.618と1.0から0.618を引いた0.382の値が判断基準として用いられる。 相場の変動は「エリオット波動理論」によると「55日移動平均線」上を動き、相場の変動周期は55日の周期で変動するらしく、「売りは61.8%上昇した時に売り」それ以上、上がるとは考えずに見切りをつけ、「買いは38.2%下がった時に買い」それ以上、下がるとは考えずに見切りをつけるらしいです。 相場に係わるトレイダーは一つの目安にしているようです。 

「エリオット波動理論( the Elliott Wave Principle )」は米国のラルフ・ネルソン・エリオット( Ralph Nelson Elliott 1871 – 1948 )が1938年に発表した学説で、5波で上昇、3波で下落という8波が相場の周期という「フィボナッチ数列」に従うものです。

天文学者のコペルニクスが地動説を唱えた時に、プトレマイオスが持ち込んだ転周円を組み込んだ天動説をおかしいと直感で思った事は、神がそれほどまでに複雑な運動を創造するとは考えられないと。 「フィボナッチ数列」に従う、自然界もやはり見事と言う他に無い神の創りたもうたものと思われます。