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ガリレオ・ガリレイ ( Galileo Galilei 1564-1642 イタリア) 

 ガリレオはイタリアのピサ( Pisa )の呉服商(父親は数学者、音楽家でもあった)の家に生まれる。 Pisaはトスカナ( Toscana )州のアルノ( Aruno )川とリグニア( Ligurian )海に面し、ローマ時代の12 – 13世紀には海軍基地として栄えた。 またピサの斜塔( the leaning bell tower )で知られている。 ピサの斜塔はボンナノ・ピサーノ( Boranno Pisano )が設計し、1173年から200年の歳月を掛け1350年に完成した。
  
 ガリレオは1589年にピサ大学の教職に付き、大学では数学、天文学を受け持ち、1592年に、パドウア( Padua )大学( 1222年設立)に籍を移し、教授となり1609年までの18年間 では幾何学、数学、天文学を教える。 大学の在るパドウア( Padua )はVenezia( Venice )の西40kmに位置する。 

 ガリレオは当初、ピサ大学では、太陽、惑星は全て地球の周りを回っているという当時受けられていた「天動説」を講義していたが、1592年に、パドウア( Padua )大学では、地球、惑星は全て太陽の周りを回っているという「地動説」、コペルニクス( Nicolaus Copernicus )の新説( sun centered or heliocentric theory )に切り替えており、1597年にはケプラー宛の手紙で「地動説」の正しい事を伝えている。  

 切り替えた理由は、1608年にオランダで発明された望遠鏡を自ら天体望遠鏡として1609年に正立像、40倍率のガリレイ式望遠鏡に改良し、木星に周りを4つの惑星が回っていることを発見し、金星が月と同じように満ち欠けが有ること、また日の経過と共に太陽の黒点が移動することを発見し、太陽の自転また軸の傾きが確認されたこと等から、地球もこれらと同じ同類性がある太陽の周りを回るの一つの惑星に過ぎないのではないかという、自身、コペルニクスの天動説が正しい説であると確認できた事による。 

 ガリレオはパドウア時代に輝かしい業績を残している。 1610年にパドウア大学を退職し、フィレンツエに戻り、その年に「星界の報告」、1613年に「太陽黒点論」、1623年に「贋金鑑識官」、1632年に「天文対話」、1638年に「新科学対話」を著している。

 1610年に「星界の報告」を著した頃から「地動説」を口にだすようになり、1615年頃から、ドミニコ会修道士ロリーニと討論となり、「地動説」の件で1616年にガリレオは第一回宗教裁判に掛けられ、ローマ教天皇庁から「地動説」については慎むよう命じられる。 既に、ジョルダノ・ブルーノ( 1548 – 1600 Giordano Bruno )は1592年に「無限宇宙論」を説き投獄され、1600年にローマ教天皇庁により焚殺の刑になっている。 

 ガリレオは1632年に「天文対話」をフィレンツエで刊行し「地動説」を擁護したとして、1633年に第二回宗教裁判に掛けられ、焚殺の刑になるところを自説を取り下げたため、無期懲役の身となる。 真偽の程は解りませんが、有名な「でも地球は動いている(Eppur si muove)」と呟いたとされております。 ただ、すでに69歳の高齢であり軟禁の減刑となる。

 ガリレオは天文学の分野ばかりでなく、1581年に振り子の振幅の大小に係わらず、揺れる往復の時間は同じであるという「振り子の等時性( the isochronism of the pendulum )」を、1604年にアリストテレスの学説、重い物は軽い物より早く落下するとされていたが、ガリレオは物体距離は時間の二乗に比例するとし、物体の重さとは無関係とする「落体の法則」を発見する。 また「天文対話」の中で、厳密には言いえていないが、「動的」静止と「静的」静止について触れており、後に前者の考えがデカルトにより力学の基本法則として、ニュートンの「慣性の法則」へと導いていくとことになる。 

 「静的」静止は日常地上で認識しうるように外部から力が作用しない限り物体は永遠に静止している。一方「動的」静止は外部から力が作用しなくても、それに逆らう作用がなければ「等速」の運動を永遠に維持する。 この事実も認識しうることで、何故に、惑星という重い星が外部からの力の作用なしに静止せずに永遠に運行し続けるのかは疑問に思います。 

 1543年にコペルニクスの主著「天球の回転について」の中で、この永遠に「等速」の円運動を続ける惑星の動力源を太陽の磁力(万有引力の法則が見出されまでは)に求め、太陽中心の天体構造論の構築へと歩んでいく事になる。
 
 ガリレオは1637年に太陽、星などの観測により片目を、翌年に両眼を失明する。 1642年に軟禁されていたアルチェトリの別荘で78歳でこの世を去る事になる。 ガリレオは、現在起きている現象に対して、まず仮説を立て、数学的また実験的に演繹し、得られた結論が現象に符合すれば「真」とし、符合しなければ「疑」とする。 現在で言うところの「仮説演繹法」の基礎を打ちたてた。 ガリレオは哲学、宗教から科学を分離する事を常に考えており、近代科学を正面から見定めた科学者で、後世の人からフランシス・ベーコンと共に、「近代科学の父」と呼ばれている。

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