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ロバート・フルトン( Robert Fulton 1765 – 1815 米国)

 フルトンは1765年に米国Pennsyvania州Lancaster郡の片田舎 Little Britainの農家に生まれる。父親とは3歳の時に死別している。 フルトンが生きた時代は、米国では1776年の独立宣言があり、フランスでは1789年にフランス革命が起き時代が大きく動き出した時代でした。 

 ペンシルヴァニア( Pennsyvania )州とNew york州は隣接した独立時の最大の州で、1682年にWilliam Pennとクエイカー派( 参照 フォックス George Fox 1624-1691 イギリス・クエイカー教を創始した )の一団が米国に渡りペンシルヴァニア州に拠を創設し発展させた地で家族も敬謙なクエイカー派であった。 またペンシルヴァニア州のフィラデルフィア ( Philadelphia )は独立宣言の地でもあり、時代は下がるが、カーネギー ( Andrew Carnege 1835-1919 スコットランド)が近代製鉄所を起こした地としても知られている。 

 フルトンは幼年時代、Lancasterの学校で教育を受け、絵画、文学に目覚め、また一方機械弄りも好きな利発な子供でした。 17歳の時に画家を目指し「人物像画」「風景画」で、ある程度の実績を上げており、それを踏まえて1786年にイギリスに渡り、さらに7年間、Benjamin Westのもとで画業に専念するが、何か自分のアイデアを実現する科学技術に目覚めだした。 それというのも、当時のイギリスは産業革命の最中で、紡織器の軽工業の発達から、ワット等の強力な蒸気機関の発明により鉱山での水汲み器への応用、運河の開削、製鉄工程の発展など重工業時代へと進み、そうした時代背景の中で、もともと幼年時代から応用科学技術に興味のあったフルトンが田舎の米国から近代国家発展途上のイギリスで目の当たりする蒸気機関の動力に目覚めないわけが無く、27歳の時に絵画から科学技術の方に本格的に人生を掛けるようになって行った。

 それというのも、絵画、音楽また科学技術の発明の分野にしても、その道で成功するには先立つ物は資金で、米国で面識のあった裕福な政治家リビングストン( Chancellor Robert R. Livingston ) を後ろ盾に出来たことも幸いであった。  リビングストンは米国がまだ植民地時代から最も有名な政治家で米国独立宣言起草の大陸議会 ( Continental Congress 1774 – 1776 ) のメンバーの一員であった。
 
 何年間の研究、実験を繰り返し、運河の掘削機ほか各種の特許を出願し、画家としてより、発明家として知られるようになり、1797年、32歳のときパリに行く事になる。 フルトンは、そこでフランス語、ドイツ語、数学また化学の基礎を学び、後に、その応用として当時最新の機雷 ( torpedoes )、また潜水艦 ( submarine boats ) の開発を手掛ける事になる。 

 フランス政府のナポレオン(Napolēon Bonaperte )からの依頼( commit )で1800年、世界で最初の潜水艦を建造しました。 潜水艦の推進力としては銅製球体に200気圧の空気を封じ込め、それを噴出させることにより、4時間程、水中で稼動し一応の成功を治めたが、この発明に対してはフランス政府からのその後の援助を得るには至らなかった。 

 フルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名はノーチラス号ですが、ナポレオンから依頼され、また世界で最初のという事もあり船名を付けるにはそれなりに考えた上での事だろうと推測されますが、なぜノーチラス号としたかはいろいろ調べましたが分かりません。 Nautilus (ギリシャ語で水夫とかオウム貝ですが)、 この頃、既にフルトンはアンモナイトと同じ2億年前の生きた化石とされているフィリッピン沖の深海に生息するオウム貝の事を知っていたのですね? 大航海時代から300年を経ているので、

 一般に貝は海岸の浅瀬に生息しますが、オウム貝はわりと深いところに生息し時折、海面に浮上します。 その為、浮き袋のような幾つかの空気室を内部構造としています。 この浮き沈みが出来る潜水艦みたいなオウム貝を船名としたのでしょうか? フィリピン沖のオウム貝は日本でも鹿児島、宮崎の海岸に死んで流れ着きます。

 余談になりますが、ヨハン・セバステイアン・バッハ( Johann Sebastian Bach )のオルガンの古典中の最大の名曲「トッカートとフーガ」を聴くと、ジュール・ベルヌ1869年作、「海底2万哩」の1954年版の米国映画の「潜水艦ノーチラス号の海底2万マイル」でBGM(Back ground music )として流れていた事が思い出されます。 ネモ船長役の若き日の主演俳優カーク・ダグラスがパイプ・オルガンでこの「トッカートとフーガ」を狂気的に演奏する姿とフルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名は「ノーチラス号」とがリンクし印象深いものがあります。 米国初の原子力潜水艦「ノーチラス号」は1954年に建造され、北極海海底を1958年に横断した事でも知られています。 

 蒸気機関を動力とした船を1793年以前に考えており、リビングストンはフルトンのアイデアを実現するために、蒸気船を米国で建造したが、一旦は失敗に終わった。 たまたまリビングストンがフランス米国公使として赴任することになり、フルトンとリビングストンは1803年にパリのセーヌ川で外輪式( paddle type )をさらに建造したが、満足のいくものではなかった。 フルトンは17年振りに米国に戻り、リビングストンと、それからも研究、実験と失敗の限りを尽くし、1807年に「 Clermont ( ハドソン川のリビングストンが所有する土地の名前で、そこで建造されたので ) 」号を建造し、首尾よくNew yorkとAlbany間 (150milesを30時間、時速8kmで)の航海に成功した。

  蒸気機関を動力とした船の開発を試みたのはフルトンが最初ではなく、
1783年に Claude Francois Dorothee Jouffroy d’Abbans
1784年にJames Rumsey
1790年にJohn Fitch
1792年にElijah Ormsbee
1796年にCollect Pond
1804年にJohn Stevens
等が試行錯誤したが、全て、最終的な完成をみなかった。

 フルトンとリビングストンは親密で、後にフルトンはリビングストンの娘Harriett を妻とする。 またフルトンは1815年に眠りに付くが遺体はリビングストンのTrinity Churchyard の地下の同じ納骨堂に安置されている。

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