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ジーメンス ( Charles William Siemens 1823-1883 ドイツ )

 ジーメンスはドイツHanover Lentheで農場主の子として生まれる。 ジーメンスはドイツ生まれですのでドイツ名ではWilhelm von Simensとなります。 ジーメンスは電気技術者として後の世に知られています。 

 ジーメンスは幼少時はthe polytechnic School of Magdeburgで学び、the University of Göttingenで機械工学を学ぶ。 19歳で弟のErnest Werner Siemens ( 1826-1904電気工学者として著名 )と考案した電気メッキ法を売り込むためにEnglandに行き一応の成果を揚げる。 再びドイツに戻りCourt Stolberg at Magdeburgに入学し工学の研究をするが、兄弟で考案したスチームエンジン用のクロノメトリックまた差動調整器の開発商品を持って1844年に再度、Englandに渡る。 

 ジーメンスの頭の中は常に、Carnot、Emile Clapeyron、Joule、Clausius、Mayer、Thomson、Rankine等が発表した「熱の本質」に関する新しい発明のアイデアで一杯だった。 一方、弟のWernerが持ち込む電気工学に係わるアイデアの実用化も大変だったと思われるが、ジーメンスの工学に係わる仕事の開発とっても弟Wernerの電気工学の助けも必要でなかったかと思われる。  いずれにしてもジーメンスの生涯の工学に係わる貢献は色々有ると思いますが、大きく分けて以下の二つかと思います。

 1)海底電話線ケーブルの施設(電気工学の分野)
 1857年に深海の海底電話線ケーブルの施設はイギリス政府の要請で地中海のSardinia島からアフリカのAlgeriaまでを試みに施設され成功裏に竣工した。 1858年にドイツの依頼者からConstantinopleからChios(トルコ共和国の西のエーゲ海に浮かぶ小島)を経由してCandia(クレタ島北の港町)迄、Syra(エーゲ海のデロス諸島の一つ)からChios迄、CandiaからAlexandria迄、Red Seaを経由してIndian OceanからIndia迄の施設をした。 この海底電話線ケーブルはコンスタンチンノーブルからダーダネルス海峡を通過して、エーゲ海の島々を経由して、地中海を横断してアフリカのアレキサンドリアから紅海を通り、インド洋の深海を施設してインドまでの多難な海底電話線ケーブルの施設をした事になる。 このために、Williamは海底電話線ケーブル施設のための新建造施設船は電気科学者の名前ファラデイに因んで「Faraday 号」と命名された。 そしてインドと西欧諸国間、BerlinとSt.Petersburg間、黒海横断など数多く手掛け、このお陰でLondon とCalcutta間11,000kmを1時間で連絡しあえるという計り知れない便利さを成し遂げた。 1931年迄にこれ等海底電話線ケーブルの機能障害は第一次世界大戦の間に一度だけであった。

  2)蓄熱槽の工学機械への応用(熱力学の分野)
  企画者及び事業主としてのジーメンスは熱力学に係わる科学工学分野での大変な貢献をする。 海底電話線ケーブル施設もそうであったが、この分野でもジーメンスは弟のWernerとの共同研究と実用化に取り組むことになる。 これは前述のように、J.P.Joulesのエネルギー保存則の実験の成果とRankine、Clausius、Lord Kelvinの熱力学の物理的かつ工学的な理論に基ずく実社会への工業への適用、応用であった。当時の、機械産業の分野、例えば製鉄業、工場また鉄道等での蒸気機関、その他いろいろの工業分野での内熱機関( internal combustion )あるいはgas engines の熱エネルギーの効率が大変悪く、熱エネルギーの多くは煙突を介して放出されるという無駄をしていた。 この熱エネルギーの効率を上げること、熱サイクルの再利用を改善、改良する事を目的としたものであった。 

 1856年に、ジーメンスは弟Wernerのアイデアを取り入れた蓄熱槽( regenerative furnace )の発明である。 この蓄熱槽の原理は、非常に単純(simple)で、内熱機関に使われた熱は、完全に冷え切れない前に放出されてしまうので、まだ使われずに残された熱エネルギーを熱が完全に冷え切るまで、一度内熱機関で使われた熱は周期的に元の蓄熱槽に戻るよう( periodically repeated process )に設計され、再度内熱機関に循環させ使用するものである。 また熱効率を高めるために、蓄熱層は内熱機関の前に設置され内熱機関に吹き込む空気を予め熱しておく事も考案されていた。 蓄熱槽の構造は熱が吸収されやすいように蜂の巣状( honeycomb )にレンガ( loose bricks made )がくまれた装置である。 この発明はthe Royal Institutionを去る電気科学者Faradaysのお別れ会を飾る主論文として贈られた。 実社会では、この発明は1861年にChances glass-worksで成功裏に用いられた。 

 この後、多くの熱サイクル工業の分野で活躍したが、何と言っても、歴史に残る製鉄工業に係わるSiemens-Martin法への応用であろう。 この科学史書でも記述されているように、製鋼の方法は、1855年に発明されたHenry Bessemerの転炉製鋼法と1865年に発明されたSiemens-Martinの平炉製鋼法がある。 

 前者のHenry Bessemerの転炉製鋼法は一度に大量の鋼を短時間で製造する上では画期的な発明であったが、この転炉は、一度に大量の鋼を短時間で製造が可能であるが、出来た鋼の材料特性が均一性に欠ける、また反応が激しいため転炉上部からの吹き零れが多いなどの欠点があった。 Bessemerの転炉法は燐含有量が少ない鉱石を用いたイギリス、米国、カナダで、Siemens-Martinの平炉法はフランス、ドイツで主に採用された。

 一方、後者のSiemens-Martinの平炉製鋼法は従来の「るつぼ( パドル )方式」では高温が得られない点をジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regenerative furnace )方式を適用し、燃焼ガスと空気をあらかじめ高温にしておいたものを平炉( open furnace )でさらに燃焼させることにより鋼製造に必要な高温を達成し均一な良質な製鋼を可能にした。 

 この開発に10年を掛け一応の成果をみたが、製鋼の材料特性の点では完全なものではなかった。 このジーメンスが考案した平炉製鋼法を完全なものに改良したのが1863年にフランス西部のCharenteat region at Sireuilで製鉄業をしていた、Emile MartinとPierre Emile親子で、この平炉製鋼法に冶金学的(銑鉄またスクラップなどを加えるなど)な創意工夫により鋼の炭素当量を調整し良質な鋼が出来るようジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regene-rative furnace )方式をより完成した平炉製鋼法にした。 

 ただ転炉法また平炉法のいずれにしても石炭から出る硫黄、燐の不純物の混入は避けられず、1875年にSidney Gilchrist Thomasが塩基性レンガを見出すまでは、品質の良い鋼を製造することは出来なかった。 

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