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ジョヴァンニ・ボッカッチオ( Giovanni Boccaccio 1313 – 1375 イタリア )

ボッカッチオの生地は不明確ではあるがイタリアの中央部トスカニ( Tuscany :イタリア・ルネサンスの発祥の地)のセルタルド( Certaldo は緑のオークの森で覆われた高地を意味する)に私生児として生まれ、トスカニのフローレンス( Florence )で育った。 母親の名も定かでない私生児として生まれたにも係わらず、性格は高貴で、著した作品からは中世騎士道的な、気高く、慎みが滲み出ている。 
 
主な著作としては
1341年に散文と詩が併記された「 Ameto 」
1342年に寓意的な詩「 Amorosa visione 」
1343年に「 Fiammetta 」
1343年に「 Ninfale fiesolano 」
1349年に後世に残る「 Decameron 」書き始め1352年に書き終える。
    
黒海のクリミア半島北方、現在のウクライナ( Ukraine )に7世紀から栄えたハザール王国が1243年に蒙古のキプチャク汗国に滅ぼされたが、一部がクリミア半島に残り、城壁を築いたカッファ(現:フェオドシアFeodosiya )の港町で盛んにジェノヴァ、ベネチアと海洋貿易を続けていた。 カッファの町では当時ユダヤ商人により持ち込まれたペスト(黒死病 Black death )が広まり、時同じくして、1346年にキプチャク汗国が再度攻め入った事により、その被災から海路を逃げ出した一部のユダヤ商人がコンスタンチンノーブル、シチリア、サルジニア、ジェノヴァと寄航し、ペスト菌が西欧へと拡大されていく。 このペストの感染域はヨーロッパ全域、西はイベリア半島、北はイギリス、スウーエデンまで広がり、一説には、ヨーロッパの全人口の1/3が減少し、社会に深刻な打撃を与えたと史実は伝えている。
 
ボッカッチオが住むフローレンス( Florence )も1348年にペスト病の大打撃を受け、1351年までの3年間に市民の3/4が亡くなったとされている。 1349年に書かれたデカメロン( Decameron :ギリシャ語のDécaは英語でTenを、hēméraはdayを意味し、十日物語とも言われる)は、このペスト病の蔓延する時に、3人の男と、7人の女が、邸宅に閉じこもり暇つぶしに10人が10日、一人1話、合わせて100話が綴られた散文である。 好色文学の祖とされるが、内容はそれ程のものではなく、ボッカッチオは聖職者の恋物語などを綴ってはいるが、この悲惨なペスト病で打ちひしがれた世間を勇気付ける所に主題を置いている。

ボッカッチオは1350年にフローレンスで、1351年にパウダでフランセスコ・ペトラルカ( Francesco Petrarca 1304 – 1374 )に会い、親交を結びまたペトラルカを師と仰ぎ、詩の創作に情熱を注ぐ事になる。 ボッカッチオはペトラルカの教えによりダンテの叙事詩「喜劇 ( La Commedia )」を大学で講義し、その素晴らしさを世に広めました。 またボッカッチオはこのダンテの喜劇 ( La Commedia )」を神聖なる書として「 神 Divina 」を付与し「 神曲 ( La Divina Commedia ) 」として後世に残ります。
     
ボッカッチオは45歳前後でギリシャ語を勉強し、試みとして、イリアス( Iliad )、オデユツセイア( Odyssey )で著名なホメ-ロス( Homer )、多作な悲劇をを書いた特にトロイの女( Trojan women )で著名な( エウリピデス( Euripides )、プラトンの教えを忠実に実行した教育者のアリストートル( Aristotle )等の著作を翻訳している。 またボッカッチオは1365年に住み慣れたフローレンスを離れ、ナポリ、ベニス、パウダと旅に出るが、1374年にパウダでペトラルカの訃報を知り、叙事詩「 the Rime 」を捧げる。 

ボッカッチオもペトラルカの死の翌年1375年に生まれ故郷のセルタルドで帰らぬ人となる。

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