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マルコ・ポーロ( Marco Polo 1245 – 1323 イタリア )

マルコ・ポーロは父が貿易商を営む高貴な家系で、ダルマテア( Dalmatia )のクロツア( Curzola )島( 現在のクロアチア西岸アドリア海に浮かぶ )に生まれ、地中海貿易の中心的な拠点をなすベニス( Venice )で育った。 マルコ・ポーロは、当時としては普通の教育を受け、ラテン系の教会で「聖書」、「神学」を学ぶ。 幼少の頃は、「博物」の中でも植物、動物などに興味を持っていた。

マルコ・ポーロが6歳の時、父と伯父は第1回目の東方への旅、Cathay( China )に赴くが、ベニスに戻った時には15歳になっており、母親は既にこの世にはいなかった。 父と伯父は2年間はベニスに留まっていたが、その後、マルコ・ポーロを連れ3人で東方への旅をする事になる( 1271 – 1295 )。 東方への旅のルートはアルメニア( Armenia )、ペルシャ( Percia )、アフガニスタン( Afghanistan )、パミール( Pamirs )高原を越え、現在語られる絹の道 ( Silk road )を辿り中国へと向う。

一行は1275年に元の大都(現在の北京)に苦難の末、辿りつくが、一行に加わっていた2人のドミニコ修道士は恐怖のため途中で逃げ帰った。 元のフビライ・ハーン( Kublai Khan )は一行を歓迎し、特にフビライ・ハーンは若いマルコ・ポーロに礼をつくし、17年間、側近の外交官として重用した。 

1292年に帰国の途に付くが、陸路は大変なので、海路とし、泉州からマレー半島を迂回し、インド洋を海岸沿いにイランのイルハン( Il Kahn )朝を経て、1295年にベニスに帰還した。 帰国後1298年のベネチアとジェノヴァ( Genoa )との海戦で捕虜となり、( Genoese prison )で知り合った翻訳家のルステイケロ( Rustichello「アーサー王伝説」を翻訳 )がマルコ・ポーロの東方への旅に興味を示し、マルコ・ポーロが口述し、ルステイケロが筆記し1299年に著した書が「世界の記述 the Description of the World 」で日本では「 東方見聞録 」で知られている。

この書をジェノヴァ( Genoa )の船乗りコロンブス( Columbus )が熱読しており、その中で黄金の国、日本( 書物の中ではCipangu )に興味を持ち西回りでジパング( Zipangu )への大航海に乗り出す事になる。 また当時の人達から「 東方見聞録 」の内容が大言壮語であるためマルコ・ポーロは「嘘呼ばわり」されたが、自身は旅で見た事の半分も話していない「 I have only told the half of what I saw ! 」と語っている。 また帰国後はDonata Badoerと結婚し3人の娘に恵まれ、1324年70歳で他界するまで幸せな日々をベニスで過ごした。

ただ、この書は当時、貿易で行き来していた商人達の話を纏めたのではないかとの説もあり、根拠としては当然書かざるべき筈の事柄が無いこと、また当時の元の暦書、通史にはマルコ・ポーロの記述が無いことに不自然さがある事に拠っている。

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