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マキアヴェリ ( Niccolo Machiavelli 1469 – 1527 イタリア )

マキアヴェリ は フロレンス (Florene、Italy )で生まれ、大学にはいかず、父親の書斎で勉学する。 また生涯をイタリアのフロレンスで過ごす。 マキアヴェリは15世紀から16世紀にかけてルネッサンス期を、イタリアが小国分立状態のフロレンス、ヴェネチア、ミラノ、ナポリなどが勢力争いをしており、外国からは強大なスペイン、フランス、ドイツ等の大国の領土的野心の対象となり、内憂外患の大混乱の時代であった。 イタリア・ルネッサンスも一気に崩壊し、終焉を迎えようとしていた。 こうした時代に生まれたマキアヴェリ は 1498年から1512年まではイタリアの分立国家フロレンスの存亡かけた外交と軍事のために政庁書記官として半生を捧げ、職を辞してからの1513年から1527年まではフロレンスの南10kmに位置する父親の所領 クッシーナ(Cuccina ) で古典研究に没頭し、1513年に小論文「君主論」( the Prince )、1517年に「政略論」( the Discourses on Livy )を著す。 

マキアヴェリが前半生をイタリアの分立国家フロレンスのために政庁書記官として働いた見聞と経験を、また静かな人生の晩節を書斎で勉強した古代ローマの古典を研究をもとに書き上げた論文が「君主論」と「政略論」である。 マキアヴェリ は ルネッサンス期における多くの思索家の中では、最も輝いていたが、一面僅かに悲壮な人物であった。
 
「君主論」でマキアヴェリが述べていることは、一国を担う君主の国家意識の優柔不断さと危機感の欠如である。 国家の存亡の危機にあっては、政治目的の前においては道徳も宗教も一切意味をもたず、人間的倫理思考に甘えず無機質的(非人間的)政治思考に切りかえるべきであるとし、いわゆる後の世に「マキアヴェリズム」と呼ばれる近代政治学の祖となる名著となった。

「政略論」では古代ローマ共和制を引き合いに出し、広大な版図のローマ帝国が堕落・停滞・衰退しなかったのは、古代ローマ」の政治体制が共和制であった事が最善であったとしている。 どのような政治体制であろうが、常に民衆と貴族との間には意思の疎通があり、争いは絶えない事は歴史が示している。それゆえ古代ローマの政治体制では、調停役として民衆と貴族の間に護民官をおいた事、ローマ法の制定・厳格公平な執行をした事、また民衆の凶暴・愚醜を神の尊厳の元に鎮めさせる宗教を基調とした国家を作り上げた事としている。

生まれ故郷のクッシーナ ( Cuccina ) で清濁併せ呑む現実の政治から離れ,生きてきた半生を静かに振り返りながら、どのような思いでこの二つの論文「君主論」と「政略論」の著作にあたったか知る由もありませんが、マキアヴェリはフロレンスをこよなく愛していた事、マキアヴェリの死後、君主制のフロレンスが3年後に滅亡したことを考えると、マキアヴェリは真の「共和主義者」であったこと、また真の現実主義的政治理念「マキアヴェリズム」を抱いていた事が伺い知れる

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