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コペルニクス ( Nicolaus Copernicus 1473-1543 ポーランド )

コペルニクスはPolamdのThornで裕福な銅販売業者の家庭に生まれ、自国の最高のクラクフ( Krakow )大学で数学、哲学、天文学を学んだ。 さらに1496年から都合2回、6年間、ボローニア(Bologna)大学でアリスタルコス( Aristarcus )の唱えた地動説(太陽中心説)を知り、またPadua大学で医学を、そして Ferrara 大学で法律を学ぶ。 その後、故郷のPolandに戻って聖職(canon)についたが、フラウエンブルク( Frauenburg )教会に付属する天文台で天体を観測しているうちに、永い間暖めてきた天文学の研究に心が動かされたいった。 

それまではプトレマイオスの天球論「アルマゲスト」が天文学を支配していた。 天球( the celestial sphere )とは、金魚鉢のように丸い球面を考え、一番上界、恒星が位置する不動の恒星天球を想定し、その下界に太陽、地球、月、他の惑星などの天球を与えた。 恒星天球では星座は球面に貼り付けられており、星座は天球ごと回転するが、星座を構成する星はお互いの位置を保つ、すなわちあまりにも遠くに有る為、恒星の年周視差があまりにも小さく観測できない。 

地球からの惑星を観測すると惑星の動きは一様でなく不規則で、この惑星のふらつき(惑う)、特に地球の内側を動く水星と金星などの惑星が順行( direct or prograde )したり、逆行( retrograde )したりする。これを説明するためにプトレマイオスは、アポロニウス( Apollonius Pergaeus B.C.225頃 - ? )の考えた周転円( epicycles 地球を中心とした円軌道上の一点に中心を持つ小円)を導入する。 これにより惑星が順行したり、逆行したりする事を説明した。

また惑星は恒星天球上を時には早く、時には遅く運行する。 これを説明するためにプトレマイオスは、離心円( eccentric circle 地球から離れた位置に惑星の円運動の中心とする大円)を導入する。 これにより惑星の動きを天球界に投影した動きは説明できるとした。  こうした周転円と離心円なる複雑な仮定を導入し長年かけた観測データをもとに惑星の運行を予測した。

コペルニクスは挑戦したのである。 今まで2000年間支配してきた「天動説」から「地動説」への180°の豹変( 世に言われるコペルニクス的転回:Kopernikanische Wendung )は天才には理解する余地が残されていたとしても世俗凡人には、教会という世俗の宗教上のモラルを心底から覆すことであり、また日常の生活で朝、日が昇り、夜、日が沈むという事実は、「天動説」が「地動説」より感覚的受け入れやすい常識( common sence )となっていた。

しかし、コペルニクスはアリスタルコスの唱えた地動説(太陽中心説)を知ってはいたが、神がそれほどまでに複雑な事を創造するかと疑問に感じていた。 まだ地球の月以外に衛星を持つ惑星は、ガリレオによる木星の衛星の発見まで、知られておらず、もし月の周りを回っているように、地球も太陽の周りを回っているとする太陽中心説は、コペルニクスは完全理論者( perfectionist )であるがため大胆にはまた確認するまで早急には発表する事は出来なかった。

ただ、コペルニクス自信は、この「地動説,太陽中心説 sun-centered formulation of a heliocentric thery of the solar systems 」によれば、つぎの二つの事柄、すなわち惑星の逆行( Retrograde Motion )と惑星の明るさの変化( Varying Brightness of the Planetes )については明瞭に説明がついた。 前者については太陽の周りを回る惑星の円軌道の大きさが違うので地球から見た惑星は時は順行したり、逆行したりする。

また後者については地球から惑星の距離が離れた場合は太陽からの反射光が弱く、近づいた時は太陽からの反射光が強いため、惑星は明暗がある事も理解していた。 これらを纏めた地動説理論の綱要を1514年に「コメンタリオルス」( Comment-ariolus )という小冊子にしクラクフ地域の天文学研究者仲間に送る。 それから30年をかけ、世に「天文学の大改革 Copernicus De Revolutionibus orbium coelestium 」と呼ばれる、大書:天球回転論「 On the Revolutions of the Heavenly Spheres 」を書き下ろしたが、中世のスコラ哲学者との論争を避けるために、「コメンタリオルス」の発表から30年後の1543年に同郷の若き天文学者レテイクス( George Rheticus 1514-1574 )の出版への勧め、また知人の神学者オジアンダー( Andreas Osiander 1498-1552 )の助力により印刷が完了し、コペルニクスの死の直前に手元に届けられた。

この書には、ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦の際に1年の長さを365.2425日とした観測値が記されている。 また後の世にテイコ・ブラーエが「地動説」を否定したのはコペルニクスが恒星の年周視差を測定していない事が最大の理由であるが、恒星の年周視差は1838年にベッセル( Friedrich Wilhelm Bessel 1784 – 1846 )が発見するが、はくちょう座61番の年周視差が0.314秒でコペルニクスの時代には望遠鏡も無く基本的に測定不可能であった。

この著作は、次世紀に、Keplerの衛星の楕円軌道の発見、Galileiの運動の法則、Newtonの万有引力の法則の発見への道を開く事になる。

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