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ロジャー・ベーコン ( Roger Bacon 1214 – 1294 イギリス )

ロジャー・ベーコンはロンドンの西130kmコーンウオール( Cornwall )半島の付け根サマーセット( Somerset )州のヨーヴィル( Yeovil )の近くの村で生まれる。 生まれた時代背景は国王Johnの悪政の最中で、フランスとの度重なる戦争で大陸の領土を失い、また王侯貴族の戦費の負担も重なり、国王John(在位1199-1216)と貴族および宗教界(フランチェスコ派及びドミノコ派)との政治的争いが絶えなかった。 こうした状況に王侯貴族の不満に終止符を討ち、双方の歩み寄りの和解案として1215年にマグナ・カルタ(大憲章)を制定した。 それは国王Johnが亡くなる1年前で、その後、悪政、失政で名高い、国王Johnの息子、Henry III(1207年生まれ、在位1216-1272)が9歳で国王の座に就く。 注)マグナ・カルタは前文と63か条からなるが、その後、一部が修正されたが上手く機能せず、忘れられた存在となったが、イギリス憲法の底流には、前文と本状の一部が形骸化された形でイギリス憲法の成文として残された。

ロジャー・ベーコンは、こうした政情不安な時代の内に過ごす。 ロジャー・ベーコンはフランチェスコ派に属し神学、スコラ哲学を学ぶ修道士でした。 当時は、大陸のみならずイギリスにおいてもアリストテレス的哲学、科学は、フランチェスコ派、ドミノコ派、その他の修道会で発展してきた。 大陸ではトマス・イグアナス( 1225 – 1274 )が活躍していた。

ロジャー・ベーコンはオックスフォード大学、後にパリ大学で学び、アリストテレスの自然学を継承していた。  ロジャー・ベーコンは、もともとはスコラ哲学者で「抽象的な議論に抽象的な議論で論争する」学理的な学問の道を歩んでいたが、後にアラビア科学を学ぶ事により経験( empiricism )を重んじる経験主義者となった。 一方「資料」と「形相」の相互関係に近代的な科学的手法( scientific method )を導入し、イギリスにおける物理、科学の分野での先駆けとなった。 今日、「近代科学の父」とも、また、そのあらゆる分野に於ける知識の豊かさ、深さから当時の人達からは「奇跡的博士( Doctor Mirabilis )」とも呼ばれている。 

ロジャー・ベーコンは当時の哲学、数学、医学、神学、法学その他もろもろ分野の学問が、イスラムの世界から西欧に流れて来ていたので、語学の面でもラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を学び、過去に翻訳されていた学術書の間違いを数多く指摘している。

著作としては1267年に「大著作( Opus majus ) 」、「小著作( Opus minus )」と1268年に「第三著作( Opustertium )」を著した。 特に、大著作は1266年にクレメンス4世法皇の進言により、数学、物理学、哲学、論理学などを一纏めにした、今で言う百科事典的な大書を著した。 そのダイジェスト版が小著作で、後に追加として第三著作を残した。

ロジャー・ベーコンは現在の望遠鏡、顕微鏡、火薬、飛行機、自動車、汽船、潜水艦などを幻想しており、周辺科学が整わないので、想像の域を出ませんでしたが、直観力には優れており、未来社会に対する科学的な啓示にはただただ感心するのみです。 光学の研究などでは、後のニュートンの光の屈折理論には400年前にある程度近い線まで辿り着いていました。
 
ロジャー・ベーコンの晩年はフランチェスコ派内の揉め事(神学論争)で異端とされ1278年から14年間、パリで幽閉され、1292年に同郷の貴族の助力により解放されるが、2年後の1294年に亡くなる。

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