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ジョセフ・ブラック ( Joseph Black 1728 – 1799 イギリス) 

ブラックはフランスのBordeauxでうまれる。 ブラックは父親のJohnでなく、15人の子供たちを育て、英語の教育を自ら授け、永い事苦労に耐えた( long-suffering maother ) 母親 Margaretの強い精神力を受け継いだものと思われる。 ブラックは幼少の頃、伝染病により肺炎を患い生涯通じて身体はそれ程健康でなく、また晩年はリュウマチに悩まされる。 ブラックはビタミンD欠乏症のため食事は菜食主義で、健康維持のため家を都会から田舎に移し、牛乳も放牧した牛からのものと徹底していた。 

ブラックは12歳の時、Belfastの学校でラテン語とギリシャ語を学び、1744年、16歳でGlasgow大学芸術学部に入り4年間を過ごすが、父親のもっと有益な学業をするよう勧められ、薬学部に進む。 ブラックはそこで薬学部教授William Cullen ( 1710 – 1790 イギリスの18世紀を代表する物理学および化学者 ) の研究室の助手となり化学に係わる事になる。 ここでの2年間を「炭酸マグネシア ( magnesia albaまたは carbonate of magnesia )」の研究に力を注ぎ、後にEdinburgh大学で学位論文となる。
    
炭酸マグネシアは土壌に幾らでも有り、当時、アルカリ剤として、医学また薬学で不可欠な化学剤でした。 余談になりますが、日本でも大阪淀川沿いの道修町(谷崎文学の春琴妙の舞台)には名だたる製薬会社がありますが、そこで作られる薬は明治の頃から炭酸マグネシアをベースにしたものが多かった。

  ブラックの学位論文では「固定空気 ( fixed air )」と呼んでいたが、今で言う二酸化炭素( carbon dioxide )を発見している。 特に、定量的な分析に立った実験に基づくものであったと同時に、後に大化学者ラヴォアジェ( Antoine Laurent Lavoisier フランス)が1776年に「フロギストン説」に代わる新しく「酸素説 ( oxygen theory )」を予知する上で不可欠な論文であったし、近代化学の礎になった。

 一旦、1752年にさらに薬学の研究を進めるため Edinburghに行くが、1756年にGlasgow大学に戻り、薬学部教授になり、解剖学 ( Anatomy )、植物学 ( Botany )および化学 ( Chemistry )の授業を受け持つことになる。 Glasgow大学には1766年まで留まり、William Cullenのしてきた「潜熱 ( Latent heat )」の基礎研究を継承し、更に発展させる事になる。 Glasgow大学に在任中に、蒸気機関を開発していた技術者James Wattに出会い終生、蒸気機関の効率化のために潜熱の考えを指導していた。 

「潜熱」とは、物質の状態の変化、水で言うと水は気体、液体、固体と温度によって状態を変える。 この状態に係わる必要とされる熱量を潜熱という。 特に、固体から液体に変わる潜熱を「融解熱」また液体から気体に変わる潜熱を「気化熱」と呼び、水では、前者には、79.7Cal/g 、後者には539.8 Cal/g が必要とされる。 William Cullenは熱量と温度の区別の理解が出来ていなかった。 

また「比熱」についても研究をし、同一の質量を、同一の温度に高めるために必要な熱量を「比熱 ( heat capacity または specific heat )」と呼ぶ。 比熱は国際単位系では、cal/g・K で、物質1gあたりの熱容量という事になりますが、熱力学理論では1モルの物質の熱容量で、モル熱容量で表し、単位系としてはJ/mol・Kで表します。

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