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マルチン・ルター( Martin Luther 1483 – 1546 ドイツ神学者 )

チューリンゲン ( Thūringen )に生まれ、エルフェルト ( Erfurt )大学で法律を学ぶ。 1505年に修道院に入り厳しい修業をし、その後ドイツ中東部の゙ヴィテンベルグ( Wittenberg )大学で神学教授をしていた。  その時のルターの課題は「いかにして恵みの神を獲得するか」で、 常々、ローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを望んでいたルター は、1517年(現在では宗教改革記念日)、ローマ教皇レオ10世(フィレンツエのメッジチ家の出身)の「贖宥券(免罪符)」の販売(教会の腐敗)に対して「免罪符に対する95条の掲題」を発表し、宗教改革を行う。 

ただ、腐りきっていたローマ・カトリック教会内部でもカルロ・ボルメオ ( St. Carlo Borromeo 1538-1584 )等により宗教改革は強力に推し進められていた。 余談になりますが、カルロ・ボルメオはミラノの大司教ですが、有名な絵「St. Carloの食事:Crespi Daniele 1590-1630 Italy、milan」に聖書を読みながら粗末な食事をとっている聖カルロ・ボルメオの姿が描かれています。

ルターは1520年「キリスト教の自由」の著作において「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を主張した。 教会、修道院の配下におかれていた権力的キリスト教、特に教会のもとでのみの修業により神の恵みが得られるとする旧態的キリスト教をキリスト教会に属さなくても、一人一人の自由なキリスト教の信仰で「神の愛の恵みは」授けられる事が本来的であるとした。 

このローマ・カトリック教会を足元から瓦解させるようなルターの主張はローマ・カトリック教会と真っ向から対立し、当時、絶対的な権力を持っていたローマ・カトリック教会教皇庁から1520年ルターは破門される。  これを期に、ルターはラテン語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳し( また地域で分れていたドイツ語の方言を統一することにも貢献する )、一般の大衆に聖書を読む機会を与えた。 1522年に新約聖書、1534年に旧約聖書が、当時開発されたばかりのグーテンベルグ゙の印刷機により出版され、迅速にドイツ各地の封建制度に苦しむ市民・農民また騎士階級から、ローマ・カトリック教会の力の及ばない北欧へと広まっていった。 

この間、1530年にアウグスブルグ ( Augsburg )国会の宗教和議において、プロテスタント信仰告白書「アウグスブルグ信仰告白」が提出され、プロテスタント・キリスト教が社会的な地位として成立する。 この時代、ルターのみが旧来のキリスト教に疑問を感じていたのではなく、古くはエラスムス( Desiderius Erasmus 1469 – 1536 )も「純粋な福音」を著しており、また時期を同じくして、西欧各地で各種のプロテスタントの名のもと宗教改革の考えが表面化していた。 その大きな流れとして、スイス・ジュネーブのジャン・カルヴィン( フランス生まれ Jean Calvin 1509 – 1564 ) も1536年に「キリスト教綱要」を著し、カルヴィン派プロテスタントを創始している。
 
カルヴィンはルターと違い「 国家 」と「 キリスト教 」を政治的に強く結び付けている。 国家権力は神から授かったものとし、国家の厳格な規律のもと国家と教会は協力して、勤労を美徳とし国を平和裏に治める神権政治を主張した。 当時、西欧各国は自然科学、産業の機械化、資本主義経済発展の糸口にあり、国家としては都合の良いキリスト教の出現であった。 そのためルター派がドイツ及び北欧に対し、カルヴィン派プロテスタントは西欧での普及、フランス、スイス、オランダ、イギリスと国際的な展開をする。 

後の歴史家が語るように、ルター派は中世的な色彩を拭いきれていないと指摘される所以である。  また時代はキリスト教二大宗派、カトリックとプロテスタント間の西欧全体を巻き込んだ100年戦争の覚めやらぬ内に、南ドイツ地方を治めていた神聖ローマ帝国の統治能力が衰退し、それにハプスブルグ家の利権が絡み、ドイツ国内を中心に30年間に亘り多国間でキリスト教二大宗派の争いが続いたが、
ボヘミア戦争(1618 – 1623)
デンマーク戦争(1625 – 1629)
スウエーデン戦争(1630 – 1635)
フランス戦争(1635 – 1648)
戦争終結の最後の4年間を掛けた、WestpharliaのOsnabrückとMünsterでの講和への努力が実り、1648年、近代国際法上の最初の国際条約「ウエストファリア条約」で終結をみるが、ドイツ国内はペストの流行もあり、人口の25%が減少し、経済活動が停滞し疲弊した。



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