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2006年08月19日

ダッドリ ( Dud Dudley 1599-1684 イギリス )

  ダッドリは鉄製造の中心地Worcestershireで生まれ、Balliol College Oxfordで学ぶ。 Worcestershireは製鉄に必要な森林地帯でしたが、木材を切りすぎて、山が裸になったようです。 1621年の「Great May Day Flood」では、洪水による被害は甚大でダッドリの工場も全て押し流されたようです。 ダッドリは製鉄に使う燃料を火力を上げるために木材( wood )を木炭( charcoal )にしてから用いていたように、最初は瀝青炭( bituminous coal )を使い、後に石炭( pit coal )を一端コークス( coke ) にしてから用いた最初の開発者でした。 ただWorcestershireには製鉄業の同業者も多く、品質の良い廉価な鉄を製造するダッドリの工場は妬みをかい同業者から壊されたり、債権者から告訴されたりして、一次Londonの刑務所に収監されたりするなど多難な人生のようでした。

 ダッドリは近代製鉄産業を基礎づける担い手の一人でしたが鉄鉱石から現在の鋼( steel )文明の成り立ちに至るまでには多くの先人の創意工夫が必要でした。 ここで、古代における「鉄の歴史」と「鋼の歴史」を区別して述べてみたいと思います。 

 鉄は青銅に比べ、融点が高く、製鋼が難しく古代では隕石 ( meteorites )が用いられ、空から降ってくる金属として( sky metal )と呼ばれていた。 鉄は金銀の数十倍の価値があり大変貴重な物で、紀元前1323年に亡くなった古代エジプト王 ツタン・カーメン( Tutankhamun )の埋蔵品の剣、装飾品として残されている。 歴史に現れる最初の製鋼の技術は現在のトルコ共和国の中部アナトリア ( Anatoria )に紀元前1680-1450年頃に建国された古(新)王国の印欧語族( Indo-European Langauage )のヒッタイト( Hittites )民族とされている。 

 ボアズキョイ( Bogazköy )遺跡の発掘で出土した楔形文書から解読されている。 楔形文書に書かれているアリンナ( arinna )に銑鉄( pig iron )を製造したと思われる鋼炉(炉と煙突だけ)のブルーム ( bloom )炉の遺構が残されており、ブルーム製鋼法( bloomery process )が鉄を作る原点であったと思われています。 この簡単な仕組みの炉で鉄鉱石( mine )から鉱石( ore )を取り出すために、鉄と化学的に結合力の強い酸素、炭素を切り離すために長時間、1000℃以上の高温の維持、そのための空気の吹き込み、また不純物の黄硫、燐他を取り除く事は当時としては大変な技術なり工夫が有ったものと思われます。 

 ヒッツタイト( Hittites )民族はそれらを克服し鉄兵器を作製し強大な鉄国家を築き上げ紀元前1530年頃、メソポタミア( Mesopotamia )の古バビロニア( Babylonia )帝国を滅ぼし、そして当時世界最強の古エジプト王国のラムセスII世( Egyptian pharah RamsesII )とヒッタイト新王国のハッテユシリシュIII世( Hittite King Hattusili III )の命運を掛けた現在のシリア( Syria)中央部で紀元前1285年、歴史に残る壮絶なカデシュの戦い( Battle of Kadesh )で鋼製兵器として使い勝利(引き分け?)したと言われています。 ヒッタイトの製鋼技術は400年間、隠匿され、ヒッタイトの製鋼技術が地中海文明に伝播されるようになったのはヒッタイト王国が滅亡する紀元前1200年頃とされている。

 鉄( iron )は、他の金属と同様に、単体としては地殻( the Earth crust )には存在しておらず、鉄鉱石( iron ore )は自然の状態では、酸素と結合した,特にFe2O3の形の酸化鉄( iron oxide )として産出される。 この鉄鉱石からFe単体を取り出すためには、一旦Fe2O3の鉄と酸素を切り離す必要があり、酸素と化学的に親和力の強い炭素を用いる。 そのために鉄鉱石を砕いた砕石( pellets )を、炉の中で炭素を含む木炭、石炭、コークス等の火力で溶かし酸素を取り除き鉱石( smelting ore )にする過程を精錬(溶鉱)という。 この火力による精錬過程の温度の違いで、概ね炭素の含有量の違う三種類の鉄に分けられる。 

1200℃で「鋳鉄( cast iron )、銑鉄( pig iron )」、炭素の含有量は2.0%以上で硬く強度はあるが脆性で脆い
 1400℃で「鋼( steel )」、炭素の含有量は0.02%から2.0%前後で延性に富みかつ強度も強い
 1500℃以上で「鍛鉄、錬鉄( wrought iron )」炭素の含有量は0.02%以下で延性に富むが強度は弱い。 

1) 「高炉」で「鉄鉱石」から「銑鉄」までにする過程を「製錬工程」という。
 2) 「転炉」で「銑鉄」から「鋼」、「錬鉄」までにする過程を「精錬工程」という。
   「鉄鉱石」から品質の良い「鋼( steel )」の製造までに産業革命からの近代科学のもとでも
   350年の時間が必要で、その解決しなければならない問題は以下のようです。
1) 「鉄鉱石」を溶かすための「燃料」の変遷、木、木炭、石炭、コークス、酸素等
2) 「鉄鉱石」から自然に含有される不純物の除去、硫黄、燐、珪素等
3) 「鉄鉱石」「石炭」「石灰」「マンガン」等の鉱石は採掘される鉱山によって、その質、鉱物的含有成分はまちまちです。 品質のよい鉱石を求めて世界中を捜し求める調査、発掘、分析等 「鉱山学」
4) 「高炉」、「転炉」の構造上の発明、改善、改良

 これ等鉄生産の手工業から工業化までに携わった工学者、科学者、発明家は無数にいたかと思いますが、いずれにしても、「今、国家にとって必要なのは鉄と血なり」と演説したドイツの首相ビスマルク( Otto von Bismarck 1815-1898 )以来、「鉄は国家なり」は現在でも生きている国家概念である。 鉄の生産はイギリスを初めとした西欧の産業革命の母であり、現在でも建築、造船、鉄道、自動車、、、、 、針1本まで鉄製品で私たちの生活にとって必需品であり、今日までの廉価な大量の需要を満たすまでには、先人の創意工夫は大変なものだったと思います。

アブラハム・ダルビー( Abraham Darby 1678-1717 イギリス )

 ダルビーはWrens Nest Birminghamで生まれ、クウエイカー教徒として教育された。 ダルビーは従来の「るつぼ ( furnace ) 」が粘土( clay )製の鋳型で作業中に割れたり、破裂したりする欠点があった。 これを克服するために、1706年にHollandに視察に行き鋳型が砂( sand )で出来ていることを学ぶ。 直ちに帰国し、工場に秘密の実験室を設け、砂製の鉄炉( iron pot )を幾つか試作した後、大型のiron potを実用化しroyal patentを取得する。 

 また、1712年にThomas Newcomenにより開発された蒸気機関による送風も考え、コークスによる高炉により鋼の脆性に係わる硫黄除去しの延性に富む製鋼の操業に成功する。 ダルビーの祖父の生地( Coalbrookdale in Shropshire )に戻り、新しく製鉄所で鉄の製造を開始する。 そして息子ダルビー2世 ( 1711-1763 )、孫のダルビー3世 ( 1750-179 )とより完成した製鉄所として受け継がれて行く事になる。 

 この高炉による鉄の大量生産 ( great scale for iron smelting )の発案は、イギリス製鉄業の隆盛に寄与しまた産業革命の原動力ともなり、17世紀イギリス工業の繁栄の偉大な発明として後の世に語り継がられている。 またダルビーはこの製鉄所の立つCoalbrookdale in Shropshireの近くを流れる谷川( River Seven at Broseley )に鉄鉱石また燃料の石炭を運ぶための橋を掛ける事を考え、青写真で終わるが、ダルビー3世がThomas Gregoryの計画のもとに、John Wilkinson ( 1728-1808 )の力を借り1777年に工事に掛かり1779年に竣工する。 このコールブルックデール( Coalbrookdale )峡谷の世界で最初の鉄橋はCoalbrookdale iron bridgeと呼ばれ、1986年に世界遺産に登録された。

 John Wilkinsonは鉄道時代を迎え、棒鋼の穴空けに欠かせないローリング機械の技術の面で、James Wattのロータリー・スチーム・エンシンの開発に大きな役割を果たした。

レオミュール ( René Antoine Ferchault de Réaumur 1683-1757 フランス )

 レオミュールはLa Rochelleで生まれ、Jesuit’college at Poitiersで学ぶ。 専門は昆虫学であるが、自然学、科学、物理、数学と幅広く研究した。 1708年、24歳の若さでAcadémie des Sciencesの会員となる。 鉄を錆びないようにする「すず鍍金」を発案する。 

 鉄( iron )と鋼( steel )の違いを、炭素の含有量で区別し、炭素の量が多い鉄を「鋳物、鋳鉄
( cast iron )」、中間の鉄を「鋼( steel )」、少ない鉄を「錬鉄( Wrought iron )」とした。 これについてはレオミュールの著作「 L’art de convertir le fer forge en acier
( the art of coverting iron into steel ) 」製鉄技術についての研究がある。

2006年08月03日

ベンジャミン・ハンツマン ( Benjamin Huntsman イギリス 1704-1776)

 ハンツマンはLincolnshire Englandで生まれる。 若いときには、Doncasterで時計製造業を目指す。 当時、製鋼業に携わる人達は、鋼の素材をドイツからの輸入に頼っていたが、ハンツマンは時計のスプリングまた振り子 ( pendulums )の素材としては適していないことを気づいていた。 ハンツマンは時計の部品に適した品質の良い鋼を作る実験を始めたが、ハンツマンは鋼( steel )を作ることが極めて困難なこと、特に鋼を溶かすには1400℃以上の高熱が必要であり、かつまた温度の持続を1週間を必要とした。 また出来た鋼はバラツキ、材料特性に信頼性が欠けていた。 鋼をつくる「るつぼ (crucible )」の適切な燃料を得ることに苦労していた。

 1740年に燃料としての品質の良いコークス ( coke )を探しにSheffieldの南Handsworthに秘密の実験室を構え、長年の実験の末、「るつぶ ( crucible )法」に辿り着く。 銑鉄( pig iron )であれば、「るつぶ ( crucible )」法で充分溶かす事が出来、1200℃程度、炭滲鋼( Blister Steel )を作り、それを鍛造して硬くかつ強靭な錬刃鋼、積鋼( shear steel )を作る事を可能にした。 ハンツマンは「るつぶ鋼( crucible steel )」の発明の貢献度に対してthe Royal Societyが会員への要請をしたが、静かに今までの研究を続けたい事と、クエイカー教徒( the Society of Friends = Quakers )の精神に背く事を理由に会員になる事を断ることになる。

ヘンリー・コート( Henry Cort 1740-1800 イギリス )

 コートは反射炉(reverberatory furnace)で錬鉄 ( wrought iron )を溝つきローラー( grooved rollers )で、回転法( rolling process )を、また攪(パドル)錬鉄法 ( Fining or Puddling process )で溶解中の鉄を精錬(質を高める)することに成功する。 パドル法( Puddling Process )の発明により、イギリスは今までかなりの量の錬鉄をsweden また Russia からの輸入に依存していたが、逆に輸出するまでになり、イギリスの錬鉄の生産に大いに寄与することになる。 コートは、1765年にはthe Royal Navy in Londonの代理人であったが、この成功により1775年にthe Navyを辞職し、Portsmouth港に自身の工場を創設することになる。

ジェームス・ナスミス ( James Nasmyth イギリス 1808-1890 )

 ジェームスはEdinburgh で生まれる。15歳でスチーム・エンジンを開発し、1834年にはManchesterで機械装置の会社を創設し、中でも蒸気ハンマー ( steam hammer )で知られた。 1837年にthe Great Western Steam Co.から蒸気船Great Britain号の蒸気エンジンまた巨大な外輪軸 ( paddle-shaft )の製作依頼があったが、Brunelの設計変更により中挫することになる。 これ等に係わる技術はEnglandを訪れていたフランスの the Creusot Iron Woeksで採用されることになり、それから橋梁、岸壁、港湾、基礎のパイプ等に多く用いられ、ジェームスが開発した後蒸気ハンマーはの鋼材の圧延には大きな貢献をした。