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2006年07月29日

ヘンリー・ベッセマー ( Henry Bessemer 1813-1898 イギリス)

 ベッセマーはHitchin Hertfordshireで生まれる。 ベッセマー式転炉 ( Bessemer Converter )、90分で30tonの高品質鋼( high grade steel )を製造可能とした製鋼法を1856年に開発した。 後に、ベッセマーは当初の平置きの型の転炉では、空気は炉上部からまた横から送り込まれていたが、炉の溶解銑鉄( smelting iron )は上部のみが鋼になるが、下部の銑鉄はパドルしないかぎり銑鉄のままである事に気づいた。 また従来のパドル法では、鋼の攪拌に多大な労力と熟練工が必要で、また取り出せる鋼の量にも限りがあり僅かであった。 これを改良するために炉への送風を炉の下部( base )に送風孔を設け、かつ鋼炉を回転させ出来るように一風変わった卵型の新回転炉を1860年に開発した。 

 この新しく開発された新炉では、炉に送り込まれる空気と溶解した銑鉄 ( pig iron )が激しく反応し炉の上部からは激しく火花が散り、今までの平炉とは全く異なる炉に変わった。    この激しい反応により、銑鉄に含まれる炭素 ( carbon )及び珪素(silicon )などの不純物を一度に除去することが可能となり、炉の温度も1600℃まで上昇させることが出来、鋼の品質も各段に良くなり、一度に精錬される鋼の量も飛躍的に伸び、また精錬に必要な時間も大幅に短縮が可能となり、廉価な鋼の精錬が可能となった。 

 当時、鉄道、造船、橋、建築など、鋼を必要とする産業は急成長を遂げており、鋼の需要は危機的な状態であった。 この救世主的なBessemer convertorsの役割は時代の要求を賄う事を可能とした精錬技術の画期的進歩であった。 この頃、Britainをしばしば訪れていた カーネギー( Andrew Carnege 1835-1919 スコットランド)はBessemer convertors法の技術を米国の製鉄所に移植し、品質の悪いsteelを改善し新しく大量の廉価な品質の良いsteelの生産に乗り出す。

2006年07月25日

ギルクリスト・トーマス( Gilchrist Thomas 1850-1885 イギリス)

 トーマスはLondonに生まれ、当初医学を志したが、生活のため医学への道を断念余儀なくされ、裁判所に勤務する傍ら、夜間独学で化学を勉強し、その中で20年間製鉄家が取り組んで果たせなかった鉄からの燐成分の除去に取り組むことになる。 

 Bessemer法でもSimens-Martin法でも鉄鉱石に含有する不純物、燐の除去は出来ず、燐は鋼の延性を阻害し、その侭では実用に耐えられないので燐含有量の少ない鉄鉱石を選ばなければならなかった。 ヨーロッパで採掘される鉄鉱石の9割は高燐含有鉱石でした。 

 また転炉炉壁の耐火煉瓦は珪石で作られていましたので、それに含まれる不純物の燐も問題にされていました。 この燐成分を取り除く方法として石灰を混入すれば、燐成分は燐酸としてスラグに含ませて除去することは可能であることは知られていましたが、塩基性の石灰が酸性転炉の炉壁と激しく反応し、転炉の寿命を損ねました。 

 米国では燐含有量の少ない鉄鉱石が産出されたので転炉は大いに利用されました。 それゆえ、ヨーロッパで無尽蔵に採掘される多燐含有鉄鉱石が利用できればと考えたのがトーマスでした。 トーマスは従兄弟で大きな製鋼所で化学技術者として勤務していたPercy Gilchristと共同してBesse-mer法の炉内壁に塩基性レンガを用いて鉄鉱( iron ores )に含まれる硫黄不純物( phos-phorus impurities )を除去するThomas-Gilchrist processを1875年に考案した。
 
 このBessemer法の炉内の高温1600℃に耐えられる融点2800℃の塩基性レンガ「生石灰( 酸化カルシューム CaO )と酸化マグネシューム( magnesia また magnesian limestone )を用いた」の開発が焦点になった。 このトーマス法の発案により、フランスードイツ国境地帯のミネット鉱山の高燐含有鉱石が利用されるようになり、フランスのLorraineードイツRuhr地域の製鉄業は栄えました。
 
 余談になりますが、フランスのLorraineはドイツ語圏で、ここで生まれたフランスの政治家Robert Schumanが1950年に、この鉄鋼、石炭のフランスのLorraineードイツRuhr地域一帯を両国管理下に置くとした「 the Schuman Declaration」は有名である。 

アンドリュー・カーネギー ( Andrew Carnegie 1835-1919 スコットランド )

 カーネギーはScotland東部のDunfrmlineで貧しい手織機職人の子として生まれる。  カーネギー一家は水力織機の工業化に押されて失業し、1848年に米国のAllegheny、Pennsylvaniaに移民する。 カーネギーは一家を助けるために、移民した13歳の時から多少馴染みのある紡績工業( a cotton mill )の糸巻き工 ( A bobbin boy )として働く。 その後カーネギーは51歳で結婚するまで勤勉に働くだけの半生であった。 

 ただカーネギーには時代を見る目があり、常に時代の潮流に乗った仕事に就いた。 つぎに就いた仕事は、発明されたばかりのモールス電報配達夫となり、仕事の合間を見てモールス信号とその電信キー操作を習得するような勤勉さがあった。 その後、広大な米国に鉄道時代が到来していたので、Pennsylvania Western Union鉄道に勤めた。 そこでの勤務中に、たまたま起きた事故の連絡にモールス信号と電信キー操作の技術が、ただちに脱線事故の復旧に役立ち、またその技術によって、a Western Union鉄道の列車稼働率を4倍迄高め、カーネギーの手腕は高く評価された。 

 そこでも上司に可愛がれ、会社の管理、経営、投資についても勉強した。 また節約に努めコツコツ勤めた資金を鉄道会社に投資し、28歳の時点では13歳の時の年収の20倍にもなっていた。 その後カーネギーの目は、広大な国土に施設される鉄道、大河に掛ける橋梁、オフィスビルの鉄骨また戦争兵器の需要と製鉄業に向けられる。 そして、これを転機にカーネギー自身が移民して来たPittsburge、Pennsylvaniaで製鉄業を営むことなる。 

 カーネギーは、多忙の中幾度と無く、西欧特にEnglandを尋ね、自身の目で、科学工業の進歩を見て歩いた。 カーネギーが当然、驚愕したのはベセッマー式転炉( Bessemer Converter )による大量粗鋼生産の工業化であった。 運良くPittsburgeに買い求めた土地の近くには、ドイツから移民してきた若干20歳程の兄弟Andrew and Anthony Klomanが設立した小さな蒸気エンジンを備えた溶解炉と木製ハンマーを装備したのみの鋳物を製造するPittsburge都市鉄工所 ( Iron City Forges )があり、他に何社かのironwork Industriesが操業していた。 

 カーネギーはこれら製鋼所の内、the Iron City Forgesとthe Cyclops Iron Comapanyを買収し、the Upper and the Lower Mills of the Carnegie、Phipps and Company、Limitedとし、これにBessemer convertors法を導入し米国で品質の悪いsteelを改善し新しく大量の廉価な品質の良いsteelの生産に乗り出す。 そして巨万の富を築くことになる。 

 1901年にカーネギーはEnglandで親交のあったNew Yorkの金融財閥 J.Pierpont Morgan に全ての資産を売却し事業の一切から身を引くことになる。 the Carnegie Companyはその後、the United States Steel Corporation と社名が変わり現在に至っている。 カーネギーは、その後、遺族に何がしかの遺産を残し、全財産を社会のために寄贈する。 私たちがよく知っている、世界中に3000以上のカーネギー図書館、数多くの音楽堂カーネギー・ホール等、幾つかの大学「カーネギー・メロン大学( Carnegie Mellon University )」の設立、カーネギー財団等がある。 

 カーネギーの書「富と福音( theGospel of Wealth )」の中で「金持ちのまま死ぬ者は、優雅ではない」と晩節を振り返っている。 またカーネギーが過ごしたPittsburgeは過去の重工業地帯ではなくなり、嘗ての「煙の町( smoky city )」の汚名を返上し、新しく生まれ変わり、金融、コンピュータ関連の優良企業の高層ビルが立ち並ぶオフィス街となり、今では誰もが憧れる都市となっている。 1998年に、埼玉県のさいたま市と姉妹都市の関係も結び、「緑の街の環境作り」のキャンペインにも力を注いでいる。

2006年07月15日

ダルトン ( John Dalton 1766-1844 イギリス )

 ダルトン はEaglesfield、Cumberland of England で生まれる。 ダルトンの家系は英国キリスト教会派でなくキリスト教クエイカー派のためダルトンは優秀であったが、Oxford大学、Cambridge大学への入学もまた公的機関の官僚にも、学会への入会もできなかった。 ダルトンの一生に暗い影を落としたキリスト教世界を背にした旧体制下のイギリス社会で活躍した化学者、数学者でした。 1642年のフォックス( George Fox 1624-1691 イギリス 宗教家 )の項を参照。 

 ダルトン は12歳でCumberlandのクエイカー派が創立した学校へ2年間通い、その後、Kendalの学校に兄と共に12年間勉強をした。 Manchesterに新しく設立されたCollegeで数学と自然哲学( natural philosophy )を教えていたが、1800年に辞職しManchesterの文学及び哲学学会の秘書官を務め、傍ら数学と化学を私的に教授していた。 1817年から哲学学会の会長を晩年まで務めた。 

 ダルトンの人生の初期は数学と気象学に費やされた。 ダルトンは1787年から人生の晩年まで、ダルトンが住む湖畔地方の天気の気象学的変化を記録し、その記入事項は20万件に及んだ。 その記録は1793年「 Meteorological Observations and Essays 」として出版された。 気象の記録の中で、特に1788年に起きたオーロラ( aurora )に大きく興味を示しオーロラ現象とその輝度(大気中の電気障害によって変化する)について観測を始め、結論としてオーロラ現象は地球の磁力に係わっているとした。 また気象学の観測の中で、貿易風は大気の温度変化と地球の自転に係わる事も指摘していた。また降雨、雲の形成、大気中の湿度分布及びその特性についても触れている。 

 ダルトン自身また兄弟も、紅緑色盲( red and green color blindness )であったため、色盲についても研究し、1794年に「 Extraordinary Facts Relating to the Vision of Colors 」の著作を残している。 現代では色覚異常の原因については解明されているが、ダルトンはその著書の中で眼球内部の液体の変色に因るものとしている。 ダルトンの遺言に死後、眼球を摘出してその事実を確認する事を書き添えている。 ダルトンの摘出された眼球は現在もthe Royal Institutionに保存されている。 

 当初フランスで色覚異常症をダルトンの名を冠せDaltonismとされ、Daltonismは病理学的に先天性紅緑色覚異常症を指す。 ダルトンは生涯、色々の研究をしてきたが、中でも私たちが高校の化学で習う「気体の分圧の法則」で知られている。 異(同じ)なる二つの気体を混合した後の気体の圧力は、混合する前の二つの気体の個々の圧力の和になるという経験則である。 

 ダルトンには、まだ分子の考えは無く、原子レベルでの仮説で、原子と原子が反応して分子になる場合については、1808年のゲイリュサック( Gay Lussac )の「気体反応の法則」、アボガドロ( Avogadro )の「分子説」を待たなければならなかった。 

 またダルトンは元素記号及び原子量を定義した最初の化学者であった。 いずれにしてもダルトンは現象( facts )と着想( ideas )を統合( synthesize)することに掛けては天才であった。 私生活におけるダルトンは結婚にも恵まれず、語らう友人も無く、クエイカー派ということもあり、ただ深い思索に耽る孤独な一生であった。

2006年07月09日

ジーメンス ( Charles William Siemens 1823-1883 ドイツ )

 ジーメンスはドイツHanover Lentheで農場主の子として生まれる。 ジーメンスはドイツ生まれですのでドイツ名ではWilhelm von Simensとなります。 ジーメンスは電気技術者として後の世に知られています。 

 ジーメンスは幼少時はthe polytechnic School of Magdeburgで学び、the University of Göttingenで機械工学を学ぶ。 19歳で弟のErnest Werner Siemens ( 1826-1904電気工学者として著名 )と考案した電気メッキ法を売り込むためにEnglandに行き一応の成果を揚げる。 再びドイツに戻りCourt Stolberg at Magdeburgに入学し工学の研究をするが、兄弟で考案したスチームエンジン用のクロノメトリックまた差動調整器の開発商品を持って1844年に再度、Englandに渡る。 

 ジーメンスの頭の中は常に、Carnot、Emile Clapeyron、Joule、Clausius、Mayer、Thomson、Rankine等が発表した「熱の本質」に関する新しい発明のアイデアで一杯だった。 一方、弟のWernerが持ち込む電気工学に係わるアイデアの実用化も大変だったと思われるが、ジーメンスの工学に係わる仕事の開発とっても弟Wernerの電気工学の助けも必要でなかったかと思われる。  いずれにしてもジーメンスの生涯の工学に係わる貢献は色々有ると思いますが、大きく分けて以下の二つかと思います。

 1)海底電話線ケーブルの施設(電気工学の分野)
 1857年に深海の海底電話線ケーブルの施設はイギリス政府の要請で地中海のSardinia島からアフリカのAlgeriaまでを試みに施設され成功裏に竣工した。 1858年にドイツの依頼者からConstantinopleからChios(トルコ共和国の西のエーゲ海に浮かぶ小島)を経由してCandia(クレタ島北の港町)迄、Syra(エーゲ海のデロス諸島の一つ)からChios迄、CandiaからAlexandria迄、Red Seaを経由してIndian OceanからIndia迄の施設をした。 この海底電話線ケーブルはコンスタンチンノーブルからダーダネルス海峡を通過して、エーゲ海の島々を経由して、地中海を横断してアフリカのアレキサンドリアから紅海を通り、インド洋の深海を施設してインドまでの多難な海底電話線ケーブルの施設をした事になる。 このために、Williamは海底電話線ケーブル施設のための新建造施設船は電気科学者の名前ファラデイに因んで「Faraday 号」と命名された。 そしてインドと西欧諸国間、BerlinとSt.Petersburg間、黒海横断など数多く手掛け、このお陰でLondon とCalcutta間11,000kmを1時間で連絡しあえるという計り知れない便利さを成し遂げた。 1931年迄にこれ等海底電話線ケーブルの機能障害は第一次世界大戦の間に一度だけであった。

  2)蓄熱槽の工学機械への応用(熱力学の分野)
  企画者及び事業主としてのジーメンスは熱力学に係わる科学工学分野での大変な貢献をする。 海底電話線ケーブル施設もそうであったが、この分野でもジーメンスは弟のWernerとの共同研究と実用化に取り組むことになる。 これは前述のように、J.P.Joulesのエネルギー保存則の実験の成果とRankine、Clausius、Lord Kelvinの熱力学の物理的かつ工学的な理論に基ずく実社会への工業への適用、応用であった。当時の、機械産業の分野、例えば製鉄業、工場また鉄道等での蒸気機関、その他いろいろの工業分野での内熱機関( internal combustion )あるいはgas engines の熱エネルギーの効率が大変悪く、熱エネルギーの多くは煙突を介して放出されるという無駄をしていた。 この熱エネルギーの効率を上げること、熱サイクルの再利用を改善、改良する事を目的としたものであった。 

 1856年に、ジーメンスは弟Wernerのアイデアを取り入れた蓄熱槽( regenerative furnace )の発明である。 この蓄熱槽の原理は、非常に単純(simple)で、内熱機関に使われた熱は、完全に冷え切れない前に放出されてしまうので、まだ使われずに残された熱エネルギーを熱が完全に冷え切るまで、一度内熱機関で使われた熱は周期的に元の蓄熱槽に戻るよう( periodically repeated process )に設計され、再度内熱機関に循環させ使用するものである。 また熱効率を高めるために、蓄熱層は内熱機関の前に設置され内熱機関に吹き込む空気を予め熱しておく事も考案されていた。 蓄熱槽の構造は熱が吸収されやすいように蜂の巣状( honeycomb )にレンガ( loose bricks made )がくまれた装置である。 この発明はthe Royal Institutionを去る電気科学者Faradaysのお別れ会を飾る主論文として贈られた。 実社会では、この発明は1861年にChances glass-worksで成功裏に用いられた。 

 この後、多くの熱サイクル工業の分野で活躍したが、何と言っても、歴史に残る製鉄工業に係わるSiemens-Martin法への応用であろう。 この科学史書でも記述されているように、製鋼の方法は、1855年に発明されたHenry Bessemerの転炉製鋼法と1865年に発明されたSiemens-Martinの平炉製鋼法がある。 

 前者のHenry Bessemerの転炉製鋼法は一度に大量の鋼を短時間で製造する上では画期的な発明であったが、この転炉は、一度に大量の鋼を短時間で製造が可能であるが、出来た鋼の材料特性が均一性に欠ける、また反応が激しいため転炉上部からの吹き零れが多いなどの欠点があった。 Bessemerの転炉法は燐含有量が少ない鉱石を用いたイギリス、米国、カナダで、Siemens-Martinの平炉法はフランス、ドイツで主に採用された。

 一方、後者のSiemens-Martinの平炉製鋼法は従来の「るつぼ( パドル )方式」では高温が得られない点をジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regenerative furnace )方式を適用し、燃焼ガスと空気をあらかじめ高温にしておいたものを平炉( open furnace )でさらに燃焼させることにより鋼製造に必要な高温を達成し均一な良質な製鋼を可能にした。 

 この開発に10年を掛け一応の成果をみたが、製鋼の材料特性の点では完全なものではなかった。 このジーメンスが考案した平炉製鋼法を完全なものに改良したのが1863年にフランス西部のCharenteat region at Sireuilで製鉄業をしていた、Emile MartinとPierre Emile親子で、この平炉製鋼法に冶金学的(銑鉄またスクラップなどを加えるなど)な創意工夫により鋼の炭素当量を調整し良質な鋼が出来るようジーメンスが考案した熱交換蓄熱槽( heat exchanger regene-rative furnace )方式をより完成した平炉製鋼法にした。 

 ただ転炉法また平炉法のいずれにしても石炭から出る硫黄、燐の不純物の混入は避けられず、1875年にSidney Gilchrist Thomasが塩基性レンガを見出すまでは、品質の良い鋼を製造することは出来なかった。 

2006年07月04日

ロバート・フルトン( Robert Fulton 1765 – 1815 米国)

 フルトンは1765年に米国Pennsyvania州Lancaster郡の片田舎 Little Britainの農家に生まれる。父親とは3歳の時に死別している。 フルトンが生きた時代は、米国では1776年の独立宣言があり、フランスでは1789年にフランス革命が起き時代が大きく動き出した時代でした。 

 ペンシルヴァニア( Pennsyvania )州とNew york州は隣接した独立時の最大の州で、1682年にWilliam Pennとクエイカー派( 参照 フォックス George Fox 1624-1691 イギリス・クエイカー教を創始した )の一団が米国に渡りペンシルヴァニア州に拠を創設し発展させた地で家族も敬謙なクエイカー派であった。 またペンシルヴァニア州のフィラデルフィア ( Philadelphia )は独立宣言の地でもあり、時代は下がるが、カーネギー ( Andrew Carnege 1835-1919 スコットランド)が近代製鉄所を起こした地としても知られている。 

 フルトンは幼年時代、Lancasterの学校で教育を受け、絵画、文学に目覚め、また一方機械弄りも好きな利発な子供でした。 17歳の時に画家を目指し「人物像画」「風景画」で、ある程度の実績を上げており、それを踏まえて1786年にイギリスに渡り、さらに7年間、Benjamin Westのもとで画業に専念するが、何か自分のアイデアを実現する科学技術に目覚めだした。 それというのも、当時のイギリスは産業革命の最中で、紡織器の軽工業の発達から、ワット等の強力な蒸気機関の発明により鉱山での水汲み器への応用、運河の開削、製鉄工程の発展など重工業時代へと進み、そうした時代背景の中で、もともと幼年時代から応用科学技術に興味のあったフルトンが田舎の米国から近代国家発展途上のイギリスで目の当たりする蒸気機関の動力に目覚めないわけが無く、27歳の時に絵画から科学技術の方に本格的に人生を掛けるようになって行った。

 それというのも、絵画、音楽また科学技術の発明の分野にしても、その道で成功するには先立つ物は資金で、米国で面識のあった裕福な政治家リビングストン( Chancellor Robert R. Livingston ) を後ろ盾に出来たことも幸いであった。  リビングストンは米国がまだ植民地時代から最も有名な政治家で米国独立宣言起草の大陸議会 ( Continental Congress 1774 – 1776 ) のメンバーの一員であった。
 
 何年間の研究、実験を繰り返し、運河の掘削機ほか各種の特許を出願し、画家としてより、発明家として知られるようになり、1797年、32歳のときパリに行く事になる。 フルトンは、そこでフランス語、ドイツ語、数学また化学の基礎を学び、後に、その応用として当時最新の機雷 ( torpedoes )、また潜水艦 ( submarine boats ) の開発を手掛ける事になる。 

 フランス政府のナポレオン(Napolēon Bonaperte )からの依頼( commit )で1800年、世界で最初の潜水艦を建造しました。 潜水艦の推進力としては銅製球体に200気圧の空気を封じ込め、それを噴出させることにより、4時間程、水中で稼動し一応の成功を治めたが、この発明に対してはフランス政府からのその後の援助を得るには至らなかった。 

 フルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名はノーチラス号ですが、ナポレオンから依頼され、また世界で最初のという事もあり船名を付けるにはそれなりに考えた上での事だろうと推測されますが、なぜノーチラス号としたかはいろいろ調べましたが分かりません。 Nautilus (ギリシャ語で水夫とかオウム貝ですが)、 この頃、既にフルトンはアンモナイトと同じ2億年前の生きた化石とされているフィリッピン沖の深海に生息するオウム貝の事を知っていたのですね? 大航海時代から300年を経ているので、

 一般に貝は海岸の浅瀬に生息しますが、オウム貝はわりと深いところに生息し時折、海面に浮上します。 その為、浮き袋のような幾つかの空気室を内部構造としています。 この浮き沈みが出来る潜水艦みたいなオウム貝を船名としたのでしょうか? フィリピン沖のオウム貝は日本でも鹿児島、宮崎の海岸に死んで流れ着きます。

 余談になりますが、ヨハン・セバステイアン・バッハ( Johann Sebastian Bach )のオルガンの古典中の最大の名曲「トッカートとフーガ」を聴くと、ジュール・ベルヌ1869年作、「海底2万哩」の1954年版の米国映画の「潜水艦ノーチラス号の海底2万マイル」でBGM(Back ground music )として流れていた事が思い出されます。 ネモ船長役の若き日の主演俳優カーク・ダグラスがパイプ・オルガンでこの「トッカートとフーガ」を狂気的に演奏する姿とフルトンが世界で始めて1800年に開発した潜水艦の船名は「ノーチラス号」とがリンクし印象深いものがあります。 米国初の原子力潜水艦「ノーチラス号」は1954年に建造され、北極海海底を1958年に横断した事でも知られています。 

 蒸気機関を動力とした船を1793年以前に考えており、リビングストンはフルトンのアイデアを実現するために、蒸気船を米国で建造したが、一旦は失敗に終わった。 たまたまリビングストンがフランス米国公使として赴任することになり、フルトンとリビングストンは1803年にパリのセーヌ川で外輪式( paddle type )をさらに建造したが、満足のいくものではなかった。 フルトンは17年振りに米国に戻り、リビングストンと、それからも研究、実験と失敗の限りを尽くし、1807年に「 Clermont ( ハドソン川のリビングストンが所有する土地の名前で、そこで建造されたので ) 」号を建造し、首尾よくNew yorkとAlbany間 (150milesを30時間、時速8kmで)の航海に成功した。

  蒸気機関を動力とした船の開発を試みたのはフルトンが最初ではなく、
1783年に Claude Francois Dorothee Jouffroy d’Abbans
1784年にJames Rumsey
1790年にJohn Fitch
1792年にElijah Ormsbee
1796年にCollect Pond
1804年にJohn Stevens
等が試行錯誤したが、全て、最終的な完成をみなかった。

 フルトンとリビングストンは親密で、後にフルトンはリビングストンの娘Harriett を妻とする。 またフルトンは1815年に眠りに付くが遺体はリビングストンのTrinity Churchyard の地下の同じ納骨堂に安置されている。