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2006年06月27日

フォックス ( George Fox 1624-1691 イギリス)

 プロテスタント・クエイカー派の創始者クエイカー(Quaker)派(正式には the Society of Friends )はGeorge Fox (1624-1691) によりプロテスタント派の一派として創始されました。 クエイカー(Quaker)派の名の由来は、祈りの時、身体を意識的に揺らすまた心霊のため震えるところから、地震(Earthquake:地球が揺れる)の英語quakeからきています。 

 今上(平成)天皇の英語の家庭教師バイニング( Elizabeth Gray Vining )夫人また5000円札の顔でも知られている新渡戸稲造( 1862-1933 盛岡出身)、「われ、太平洋の掛け橋とならん」と国際人として生き、東京女子大学初代学長、また著名な「武士道( the Soul of Japan )」を著す) が結婚した女性、メアリー( Mary Patterson Elkinton )もキリスト教クエイカー派でした。 

 信教徒ピューリタン( Puritan : 清潔、潔白を表す purity に由来)と同じく、1682年にWilliam Penとクエイカー派の一団が米国に渡りペンシルヴェニア州に拠を創設し発展させる。 因みにペンシルヴェニア( Pennsylvania = Penn’s wood-land )は創設者William PennのPennと森を表すラテン語のsylvan ( silvan )に由来する。

2006年06月19日

ベサリウス ( Andreas Vesalius 1514-64 ベルギー)

ベサリウスはBelgianのBrusselsで生まれ、1533-1536年、the Louvianとthe Paris Universityで学び、特に、the Paris Univeristyでは、薬学と解剖学を学んだ。 それ迄にも古典的なGalenの医学書が有ったが、自ら解剖を手掛け、 1543年に現在の医学の源流をなす、7巻からなる革新的医学書「De Humani CorporisFabrica ( 人体の構造 ) 」を著作した。 今見ても驚くほどの身体の細部に到るまで、詳密な挿絵を彼自身が描いている。 スペインの宮廷で過ごした後、帰途、船の座礁Zacynthus島で亡くなっている。 下記に記すように、Copernicusの地動説と同じように、中世の盲信的な中世キリスト世界的な考えを180度方向を変える考えであった。

2006年06月15日

ガリレオ・ガリレイ ( Galileo Galilei 1564-1642 イタリア) 

 ガリレオはイタリアのピサ( Pisa )の呉服商(父親は数学者、音楽家でもあった)の家に生まれる。 Pisaはトスカナ( Toscana )州のアルノ( Aruno )川とリグニア( Ligurian )海に面し、ローマ時代の12 – 13世紀には海軍基地として栄えた。 またピサの斜塔( the leaning bell tower )で知られている。 ピサの斜塔はボンナノ・ピサーノ( Boranno Pisano )が設計し、1173年から200年の歳月を掛け1350年に完成した。
  
 ガリレオは1589年にピサ大学の教職に付き、大学では数学、天文学を受け持ち、1592年に、パドウア( Padua )大学( 1222年設立)に籍を移し、教授となり1609年までの18年間 では幾何学、数学、天文学を教える。 大学の在るパドウア( Padua )はVenezia( Venice )の西40kmに位置する。 

 ガリレオは当初、ピサ大学では、太陽、惑星は全て地球の周りを回っているという当時受けられていた「天動説」を講義していたが、1592年に、パドウア( Padua )大学では、地球、惑星は全て太陽の周りを回っているという「地動説」、コペルニクス( Nicolaus Copernicus )の新説( sun centered or heliocentric theory )に切り替えており、1597年にはケプラー宛の手紙で「地動説」の正しい事を伝えている。  

 切り替えた理由は、1608年にオランダで発明された望遠鏡を自ら天体望遠鏡として1609年に正立像、40倍率のガリレイ式望遠鏡に改良し、木星に周りを4つの惑星が回っていることを発見し、金星が月と同じように満ち欠けが有ること、また日の経過と共に太陽の黒点が移動することを発見し、太陽の自転また軸の傾きが確認されたこと等から、地球もこれらと同じ同類性がある太陽の周りを回るの一つの惑星に過ぎないのではないかという、自身、コペルニクスの天動説が正しい説であると確認できた事による。 

 ガリレオはパドウア時代に輝かしい業績を残している。 1610年にパドウア大学を退職し、フィレンツエに戻り、その年に「星界の報告」、1613年に「太陽黒点論」、1623年に「贋金鑑識官」、1632年に「天文対話」、1638年に「新科学対話」を著している。

 1610年に「星界の報告」を著した頃から「地動説」を口にだすようになり、1615年頃から、ドミニコ会修道士ロリーニと討論となり、「地動説」の件で1616年にガリレオは第一回宗教裁判に掛けられ、ローマ教天皇庁から「地動説」については慎むよう命じられる。 既に、ジョルダノ・ブルーノ( 1548 – 1600 Giordano Bruno )は1592年に「無限宇宙論」を説き投獄され、1600年にローマ教天皇庁により焚殺の刑になっている。 

 ガリレオは1632年に「天文対話」をフィレンツエで刊行し「地動説」を擁護したとして、1633年に第二回宗教裁判に掛けられ、焚殺の刑になるところを自説を取り下げたため、無期懲役の身となる。 真偽の程は解りませんが、有名な「でも地球は動いている(Eppur si muove)」と呟いたとされております。 ただ、すでに69歳の高齢であり軟禁の減刑となる。

 ガリレオは天文学の分野ばかりでなく、1581年に振り子の振幅の大小に係わらず、揺れる往復の時間は同じであるという「振り子の等時性( the isochronism of the pendulum )」を、1604年にアリストテレスの学説、重い物は軽い物より早く落下するとされていたが、ガリレオは物体距離は時間の二乗に比例するとし、物体の重さとは無関係とする「落体の法則」を発見する。 また「天文対話」の中で、厳密には言いえていないが、「動的」静止と「静的」静止について触れており、後に前者の考えがデカルトにより力学の基本法則として、ニュートンの「慣性の法則」へと導いていくとことになる。 

 「静的」静止は日常地上で認識しうるように外部から力が作用しない限り物体は永遠に静止している。一方「動的」静止は外部から力が作用しなくても、それに逆らう作用がなければ「等速」の運動を永遠に維持する。 この事実も認識しうることで、何故に、惑星という重い星が外部からの力の作用なしに静止せずに永遠に運行し続けるのかは疑問に思います。 

 1543年にコペルニクスの主著「天球の回転について」の中で、この永遠に「等速」の円運動を続ける惑星の動力源を太陽の磁力(万有引力の法則が見出されまでは)に求め、太陽中心の天体構造論の構築へと歩んでいく事になる。
 
 ガリレオは1637年に太陽、星などの観測により片目を、翌年に両眼を失明する。 1642年に軟禁されていたアルチェトリの別荘で78歳でこの世を去る事になる。 ガリレオは、現在起きている現象に対して、まず仮説を立て、数学的また実験的に演繹し、得られた結論が現象に符合すれば「真」とし、符合しなければ「疑」とする。 現在で言うところの「仮説演繹法」の基礎を打ちたてた。 ガリレオは哲学、宗教から科学を分離する事を常に考えており、近代科学を正面から見定めた科学者で、後世の人からフランシス・ベーコンと共に、「近代科学の父」と呼ばれている。

ハンス・リッペルスハイ ( Hans Lippershey 1570 – 1619 オランダ)

 ハンス・リッペルスハイはドイツのWeselで生まれ、オランダ( Netherlands )に移住し、ミッテルブルフ( Middleburg )で「めがね」業を営む。 MiddleburgはNetherlandsの南西部Zeeland州に位置し、絵画、工芸などの輝かしい地方都市であったが、一方、暗い側面としてAmsterdamと並び大航海時代からの尾を引く、大西洋を渡る新生大陸への最大の奴隷貿易港であった。

 ハンス・リッペルスハイは店でレンズを使って遊ぶ子供たちの、喜ぶ歓声に、ふと自身、同じようにレンズを組み合わせて覗いてみると、驚いたことに、近くの教会の屋根の風見鳥が肉眼で見るより明らかに大きくかつ鮮明に見えた。 これ等二つのレンズを筒の両側に固定し、望遠鏡( telescope )の原型を作り、「 kijker 」と名づけた。 意味は「 looker 」である。 これをベルギー政府( the Belgian government )に1608年に特許の請願をするが、既に公知な事が理由で却下される。 

 ただ、誰が最初に望遠鏡を発明したかとなると、この残された特許請願書によりハンス・リッペルスハイとされている。 他の説では、1589年にナポリ( Naples )のGiambattista della Porta( 1535 – 1615 :Portaがライフワークとして50歳の時に出版した、博学史20巻の17 巻の7章は光学について、10章が問題のtelescopeについて書かれている)、Netherlands北部の町AlkmaarのJacob Metius( 1571 – 1635 )、同じMiddleburgのSacharias Janssen( 1588 – 1632 )もオランダ議会( the States General )にtelescopeの発明について疑義を申し立ている。

ガラスは古代からあり、レンズに使われるような透明なクリスタル(水晶)的なガラスは12世紀頃イタリアのベネチア( Venice )で作られ、後にチェコのボヘミア( Bohemia )、フランスのバカラ( Baccarat )、オランダ、イギリスへと広がる。 オランダでのガラス製造技術はイタリアから導入されたが、レンズを組み合わせるアイデアはこのMiddleburgで始まったものと思われる。 

 余談になりますが、強化ガラス「オランダの涙またはPrince Rupert’s drops 」の製造また現在でも実験科学で使われる静電気を蓄えるライデン瓶( フランクリンが雷雲の中に凧を飛ばし静電気を確認した実験に使われる )はオランダのライデン大学で発明された。

 ハンス・リッペルスハイは軍用にtelescopeを製作し、また新たに、複合式顕微鏡( the compound microscope )また双眼望遠鏡( the binocular telescope )も試作している。 これを伝え聞いたガリレオも,1610年には自作し、月面、惑星また太陽の黒点などの観測をはじめている。  Telescopeの日本への伝来も意外と早く、徳川家康にイギリス国王ジェームス一世による使節団のジョン・セーリス( John Saris 1579 – 1643 )が1613年に献上したと言われており、徳川美術館に所蔵されている。 

 この後、ケプラーの考えにより実像と虚像が上下( up – down )逆転しないようにした現在の形に近いものにした。  それから長い年月の後、現代のすばる望遠鏡まで発展してきて、45億光年先の銀河系誕生はおろか140億光年先の宇宙誕生を探るまでになってきている。

2006年06月03日

マルチン・ルター( Martin Luther 1483 – 1546 ドイツ神学者 )

チューリンゲン ( Thūringen )に生まれ、エルフェルト ( Erfurt )大学で法律を学ぶ。 1505年に修道院に入り厳しい修業をし、その後ドイツ中東部の゙ヴィテンベルグ( Wittenberg )大学で神学教授をしていた。  その時のルターの課題は「いかにして恵みの神を獲得するか」で、 常々、ローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを望んでいたルター は、1517年(現在では宗教改革記念日)、ローマ教皇レオ10世(フィレンツエのメッジチ家の出身)の「贖宥券(免罪符)」の販売(教会の腐敗)に対して「免罪符に対する95条の掲題」を発表し、宗教改革を行う。 

ただ、腐りきっていたローマ・カトリック教会内部でもカルロ・ボルメオ ( St. Carlo Borromeo 1538-1584 )等により宗教改革は強力に推し進められていた。 余談になりますが、カルロ・ボルメオはミラノの大司教ですが、有名な絵「St. Carloの食事:Crespi Daniele 1590-1630 Italy、milan」に聖書を読みながら粗末な食事をとっている聖カルロ・ボルメオの姿が描かれています。

ルターは1520年「キリスト教の自由」の著作において「人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説を主張した。 教会、修道院の配下におかれていた権力的キリスト教、特に教会のもとでのみの修業により神の恵みが得られるとする旧態的キリスト教をキリスト教会に属さなくても、一人一人の自由なキリスト教の信仰で「神の愛の恵みは」授けられる事が本来的であるとした。 

このローマ・カトリック教会を足元から瓦解させるようなルターの主張はローマ・カトリック教会と真っ向から対立し、当時、絶対的な権力を持っていたローマ・カトリック教会教皇庁から1520年ルターは破門される。  これを期に、ルターはラテン語で書かれた聖書をドイツ語に翻訳し( また地域で分れていたドイツ語の方言を統一することにも貢献する )、一般の大衆に聖書を読む機会を与えた。 1522年に新約聖書、1534年に旧約聖書が、当時開発されたばかりのグーテンベルグ゙の印刷機により出版され、迅速にドイツ各地の封建制度に苦しむ市民・農民また騎士階級から、ローマ・カトリック教会の力の及ばない北欧へと広まっていった。 

この間、1530年にアウグスブルグ ( Augsburg )国会の宗教和議において、プロテスタント信仰告白書「アウグスブルグ信仰告白」が提出され、プロテスタント・キリスト教が社会的な地位として成立する。 この時代、ルターのみが旧来のキリスト教に疑問を感じていたのではなく、古くはエラスムス( Desiderius Erasmus 1469 – 1536 )も「純粋な福音」を著しており、また時期を同じくして、西欧各地で各種のプロテスタントの名のもと宗教改革の考えが表面化していた。 その大きな流れとして、スイス・ジュネーブのジャン・カルヴィン( フランス生まれ Jean Calvin 1509 – 1564 ) も1536年に「キリスト教綱要」を著し、カルヴィン派プロテスタントを創始している。
 
カルヴィンはルターと違い「 国家 」と「 キリスト教 」を政治的に強く結び付けている。 国家権力は神から授かったものとし、国家の厳格な規律のもと国家と教会は協力して、勤労を美徳とし国を平和裏に治める神権政治を主張した。 当時、西欧各国は自然科学、産業の機械化、資本主義経済発展の糸口にあり、国家としては都合の良いキリスト教の出現であった。 そのためルター派がドイツ及び北欧に対し、カルヴィン派プロテスタントは西欧での普及、フランス、スイス、オランダ、イギリスと国際的な展開をする。 

後の歴史家が語るように、ルター派は中世的な色彩を拭いきれていないと指摘される所以である。  また時代はキリスト教二大宗派、カトリックとプロテスタント間の西欧全体を巻き込んだ100年戦争の覚めやらぬ内に、南ドイツ地方を治めていた神聖ローマ帝国の統治能力が衰退し、それにハプスブルグ家の利権が絡み、ドイツ国内を中心に30年間に亘り多国間でキリスト教二大宗派の争いが続いたが、
ボヘミア戦争(1618 – 1623)
デンマーク戦争(1625 – 1629)
スウエーデン戦争(1630 – 1635)
フランス戦争(1635 – 1648)
戦争終結の最後の4年間を掛けた、WestpharliaのOsnabrückとMünsterでの講和への努力が実り、1648年、近代国際法上の最初の国際条約「ウエストファリア条約」で終結をみるが、ドイツ国内はペストの流行もあり、人口の25%が減少し、経済活動が停滞し疲弊した。



ペスタロッチ ( Heinrich Pestalozzi 1746-1827 スイス )

 ペスタロッチはZurichに生まれる。 同郷の思想家ルソーJean Jacques Rousseau (1712-1778)を信奉し、その著書「社会契約論」、「エミール」を参考に、ペスタロッチの教育原理「実物(直感)教育( object lesson )」、言葉ではなく、まず「事物」を観察すること、そして「行動」にすることを実践するために1805年、Yverdonに学校を創設し、当時フランス革命により荒廃した田舎で生きた貧しいかつ社会的地位あるいは権利を有しない子供たちを一人で生きてゆける立派な社会人に育てる事を自ら学んだ、ある意味では空想的教育実践者であった。 

 ペスタロッチの死後、現在でも西欧のみでなく日本にも多くのペスタロッチの教育論に心を傾ける多くの賛同者がいる。 ペスタロッチの著作は多く有りますが 「ゲルトハートはいかに我が子を育てたか」(How Gertrude Teaches Her Chiidren  )もそうですが、ルソーが「エミール」で記す様に「子供は教育を受けて社会的人間になる前に自然に溶け込む子供でありたい」と今でもこの教育理念は正しいように思われます。

2006年06月01日

プリーストリー ( Joseph Priestley 1733 – 1804 イギリス)

プリーストリーはFieldhead in Birstall Parish、Leedsで洋服仕立て屋の家に生まれる。 1745年にラテン語を中心とした中等学校( grammar school )に入学する。 当初、ラテン語、ギリシャ語を学び、次第に物理学、哲学、幾何学、数学そして古代東洋の言語も学ぶ。 1765年にEdinburg大学から法学博士号を取得する。 また科学および政治の分野での研究で、プリーストリーは自身の電気の研究でBenjamin Franklin( 1706 – 1790米国における政治家、物理学者、外交官)とも身近な友人でロンドンで会っている。 

プリーストリーの最も有名な科学的研究は1770年代におけるガスの特性についてであった。 住まいの近くに醸造所があり、容易に炭酸ガス( carbon dioxide )を入手でき、最初の化学文献は炭酸水の製法についてであった。 これにより、あらゆるガス( airs )に興味を持つようになり、最終的に酸素を始めとして8つ(実際は3つ)のガスの特性を明らかにした。 

酸素については、1774年に酸化第二水銀を500℃まで加熱することにより、可逆反応により「何かわからないガス」が得られ、そのガスの中でねずみが生きていらる事、またそのガスは蝋燭の火をさらに激しく燃やすことを観察をし、当時はフロギストン説の時代であったので、プリーストリーはこのガスを「脱フロギストン空気」とした。 後にこのガスは「酸素」であるとラヴァジェにより名称された。

プリーストリーは独立派教会の牧師であったため、イギリス国国教会の暴徒により1791年自宅、蔵書他を破壊された。 1794年に米国のPennsylvaniaに家族ともども移住することになる。 1804年に亡くなるが、18世紀を代表する科学者の一人である。プリーストリーばかりでなく、イギリス国国教会からRobert Browne等による分離派改革運動は国家により弾圧され、信仰の自由を求めて一部は1620年代に米国に渡る。 イギリスに残った分離派は独立派となり、1642-1649年のピューリタン革命で、オリバー・クロムエルを指導者として中心的な役割を果たす。

 余談になりますが、新島襄も幕末に函館より密出国して、米国で分離派が設立した大学のひとつアーモスト大学で学び1874年に帰国し、翌年、京都に同志社大学を設立しました。

ジョセフ・ブラック ( Joseph Black 1728 – 1799 イギリス) 

ブラックはフランスのBordeauxでうまれる。 ブラックは父親のJohnでなく、15人の子供たちを育て、英語の教育を自ら授け、永い事苦労に耐えた( long-suffering maother ) 母親 Margaretの強い精神力を受け継いだものと思われる。 ブラックは幼少の頃、伝染病により肺炎を患い生涯通じて身体はそれ程健康でなく、また晩年はリュウマチに悩まされる。 ブラックはビタミンD欠乏症のため食事は菜食主義で、健康維持のため家を都会から田舎に移し、牛乳も放牧した牛からのものと徹底していた。 

ブラックは12歳の時、Belfastの学校でラテン語とギリシャ語を学び、1744年、16歳でGlasgow大学芸術学部に入り4年間を過ごすが、父親のもっと有益な学業をするよう勧められ、薬学部に進む。 ブラックはそこで薬学部教授William Cullen ( 1710 – 1790 イギリスの18世紀を代表する物理学および化学者 ) の研究室の助手となり化学に係わる事になる。 ここでの2年間を「炭酸マグネシア ( magnesia albaまたは carbonate of magnesia )」の研究に力を注ぎ、後にEdinburgh大学で学位論文となる。
    
炭酸マグネシアは土壌に幾らでも有り、当時、アルカリ剤として、医学また薬学で不可欠な化学剤でした。 余談になりますが、日本でも大阪淀川沿いの道修町(谷崎文学の春琴妙の舞台)には名だたる製薬会社がありますが、そこで作られる薬は明治の頃から炭酸マグネシアをベースにしたものが多かった。

  ブラックの学位論文では「固定空気 ( fixed air )」と呼んでいたが、今で言う二酸化炭素( carbon dioxide )を発見している。 特に、定量的な分析に立った実験に基づくものであったと同時に、後に大化学者ラヴォアジェ( Antoine Laurent Lavoisier フランス)が1776年に「フロギストン説」に代わる新しく「酸素説 ( oxygen theory )」を予知する上で不可欠な論文であったし、近代化学の礎になった。

 一旦、1752年にさらに薬学の研究を進めるため Edinburghに行くが、1756年にGlasgow大学に戻り、薬学部教授になり、解剖学 ( Anatomy )、植物学 ( Botany )および化学 ( Chemistry )の授業を受け持つことになる。 Glasgow大学には1766年まで留まり、William Cullenのしてきた「潜熱 ( Latent heat )」の基礎研究を継承し、更に発展させる事になる。 Glasgow大学に在任中に、蒸気機関を開発していた技術者James Wattに出会い終生、蒸気機関の効率化のために潜熱の考えを指導していた。 

「潜熱」とは、物質の状態の変化、水で言うと水は気体、液体、固体と温度によって状態を変える。 この状態に係わる必要とされる熱量を潜熱という。 特に、固体から液体に変わる潜熱を「融解熱」また液体から気体に変わる潜熱を「気化熱」と呼び、水では、前者には、79.7Cal/g 、後者には539.8 Cal/g が必要とされる。 William Cullenは熱量と温度の区別の理解が出来ていなかった。 

また「比熱」についても研究をし、同一の質量を、同一の温度に高めるために必要な熱量を「比熱 ( heat capacity または specific heat )」と呼ぶ。 比熱は国際単位系では、cal/g・K で、物質1gあたりの熱容量という事になりますが、熱力学理論では1モルの物質の熱容量で、モル熱容量で表し、単位系としてはJ/mol・Kで表します。

キャベンデイシュ ( Henry Cavendish 1731 – 1810 イギリス)

キャベンデイシュはフランスのNiceで生まれる。 貴族の出で、母方はケント公爵の家系で( Duke of Kent :Kent州はイングランドの東南部、現在のケント公爵Edward王子はエリザベス女王の従兄弟にあたる。 ケント公爵といえばテニスの4大トーナメントの一つウインブルトン・テニス ( Wimbledon tennis )大会に必ずご夫妻がお見えになる。)、父方はデヴォン公爵の家系で( Duke of Devonshire : Devon州はイングランドの南西部コーンウオール半島一帯)で、Normanの8世紀続いたGreat Britainの多くの貴族に結ばれている。 キャベンデイシュは代々の遺産を相続し個人としてはイングランドで有数の資産家であった。 キャベンデイシュの末裔が1870年代に母校のCambridge大学にCambridge Laboratoryを寄贈している。

キャベンデイシュは11歳でHackneyにあるDr.Newcome’s Schoolに入学する。 18歳でSt. Peter’s CollegeのCambridge大学に入学する。 キャベンデイシュは、はにかみ ( shay )やの奇人で自閉症( Asperger syndrome : 1944年にウイーンの医者Hans Aspergerが医学論文に発表した)であった。 特に女性を嫌い、夕食に羊の腿肉を食べたい時、自宅の女中にすら自ら口伝出来ず、メモに‘legs of mutton’が食べたいと書置きしたようです。 

キャベンデイシュの唯一の気晴らしのはけ口はRoyal Society Clubの会員が皆揃って、毎週開かれる会合の前に定例の食事会が模様されるが、それもしばしば忘れるけれども、会員仲間からは心から尊敬されていた。

 キャベンデイシュは科学の分野で、広範な研究をするが、根が自閉症のため、研究成
果を発表する事が苦手であった。 キャベンデイシュの主なるものを以下に示す。

1)水素の発見、空気および水の組成について
  1766年に水素を発見する。 水素は可燃性ガス( Inflammable air H2 )で、他にも木炭を加熱して今で言うところの一酸化炭素( CO )、金属を亜硫酸または塩酸で溶解し可燃性のガスなどを幾つか見出している。
空気の組成については、正確な定量的な実験を繰り返し、「フロギスタン空気」( phlogisticated air N2 ) 79.2% 、「脱フロギスタン空気」( dephlogisticated air O2 ) 20.8% を見出している。 実際は、前者にはアルゴン( Ar )が1/120含まれているが、それについては100年後のWilliam RamsayとLord Rayleighの研究を待たなければならない。
  水の組成については、水素と酸素の割合を色々変え、火花放電( glass globe をあて物にこする)により発火させ、それを幾度となく繰り返し、最終的に水素( Inflammable air H2 )と酸素( dephlogisticated air O2 )の割合が2:1であることを見出している。

2)地球質量の推定について
  1796 - 1798年に地球の質量を推定により計算し、その重さを5.97x1027 tons としたが、その後、20世紀まで、正しい値として用いられ、現在の推定値との誤差は1%である。

3)電気の性質について 
  電気科学の分野でも幾つかの輝かしい成果をあげているが、発表が苦手なため、後
にJames Clerk Maxwellが100年後の1879年に発表するまで世に知られなかった。
電気ポテンシャル ( electric potential )の概念について
電解容量 ( capacitance )の概念について
物質の誘電率 ( dielectric constant )の概念について
電気ポテンシャルと電流の関係、現在のOhm’s Lawについて
二つの電荷の間に働く電気力は二つの電荷の距離の二乗に逆比例する関係、現在のCoulomb’s Law について、

ウエーラー( Friedrich WÜhler 1800-1882 ドイツ 化学者)

ウエーラーはドイツのEschersheim で生まれ、Marburg-heidelberug 大学で当初は医学を学び、後に化学に興味を抱くようになる。 1836年にGöttingen 大学の化学の教授となる。

専門は有機化学系の物質、特に尿素( urea ) CO(NH2)2 についての研究で著名である。
また、1827-1828年にベリリユーム( Beryllium )及びアルミニュウム( Aluminium )を金属固体として見出した。有機及び無機化学の著書「 Outlines of Organic Chemistry 」を1840年に著す。 

アルミニュウムはイギリスのHumphry Davyが「みょうばん(無色透明な正八面体の結晶体)鉱石」を電気分解して発見したAluminaをウエーラーがさらに研究しアルミニュウムを金属固体として見出した。 その後、アルミニュウムの鉱石(ボーキサイト)からの分離はフランスのClaaire Devilleにより改良され、現在のアルミニュウムの製法については米国のMartin HallとフランスのPaul Heroult により個別ではあるが、同時に1886年、Hall-Heroult製法として工業化された。 

アルミニュウムの語源は「みょうばん( 英語のalum )と光る物を表す( ラテン語のalumen )」の造語である。 みょうばん(明礬)は私たちにとっても身近な物で、別府温泉の「湯の花」もみょうばんで、昔から染色、医薬用として用いられていた。 アルミニュウムは建築材料他、私達の生活にはなくてはならない素材である。 アルミニュウムは鋼( steel )に比較し軽量ではあるが、強度が弱くまたヤング係数が低いため構造材としては不向きである。

アルミニュウム95%、銅( Copper )4%、マグネシューム( Magne-sium )0.5%、マンガン( Manganese )0.5%を基本組成とした軽量で強度(比強度=強度/質量 specific strength)の高い合金ジュラルミン( Duralumin )が1906年ドイツのDÜrenで冶金学者ウイルム(Alfred Wilm)によって発明された。 ジュラルミンの語源は「ドイツの(Düren)とアルミニュウム( Aluminium )」の造語である。 

ただジュラルミンは航空機に用いた場合、空気との摩擦熱による強度の低下が問題で、現在ではチタン(チタニュームTitanium )にアルミニュウム、ジルコン( Zircon )、スズ( Tin )、モリブデン( Molybdenum )を組成としたチタン合金が使われている。 チタン合金(比重=4.5)はアルミニュウム(比重=2.7)に比べやや重いが強度が6倍あり、鋼(比重=6.8)よりも軽く、強度も2倍あり、さらに耐熱性、耐食性に優れ、ジェット航空機の主翼、エンジンまた原子炉冷却期の主要部に用いられている。 

アルミニュウムは、米国の地質学者クラーク( F.W.Clarke 1847-1931)が1924年に示したクラーク数(地殻中の元素の存在度)では7.56で1位、鉄(4.70)2位よりも多い。 ちなみに酸素( oxygen )なども含めたクラーク数の10位までの元素を合わせると、地球の重量の99%を占める。 クラーク数は1924年当時の推定値であり、現在は考えが少し違うようであるがここでは概略に留める。

グッドイヤ ( Charles Goodyear 1800-1860 米国 技術者 )

グッドイヤは米国のNew Haven of Connecticut で生まれ、父親と金物類の販売などを仕事としていましたが、会社は1830年に倒産し、負債のため刑務所に入っていた時期もありました。 その後、ゴムの改良の研究に取り組みました。 

大航海時代のコロンブスが持ち帰った生ゴム( natural rubber、India rubber )は、常温では柔らかすぎ、復元力もなく、また低温下では伸びが無く脆性的な材質で、今のゴムの性質を持ち合わせていませんでした。 グッドイヤは貧困の中、多くの実験を試み、過労の中暖房用のストーブの前で眠り込み、ふとした事でゴム液の中に硫黄( sulfur )を溢してしまい、ゴム液が硬化しているのに偶然気づきました。硫黄の硫化効果( vulcanization )の大発見でした。  

生ゴムの樹液、乳樹脂の主成分はgutta(炭水化物)である。 生ゴムは産地により呼び名が異なり、コロンブスが持ち帰った生ゴム( caoutchoue )は南米産のゴムの木( Manikara bidetata )の樹液、乳樹脂( latex )ですが、生ゴム( gutta percha )はマレー地方産のゴムの木( palaquium gutta )の樹液、乳樹脂からも得られ、こうした生ゴム( balata、caoutchouc、chicle、gutta-percha )はすべて各産地のゴムの木のnatural latexesから採取されたものである。 

現在は、合成ゴム(化学的合成)ではない生ゴムは亜熱帯のメキシコ、中南米諸国で栽培により採取されており、商業用ベースとしては、Parà rubber ( Heavea brasiliensis )、guayule( parthenium argentatum )が利用されている。 Vulcanizationは化学的には生ゴム( natural rubber )の単量体( monomers )を硫黄を加硫することにより、単量体分子を化学的につなぎ合わせ( chemical links)、重合体( polymers )として、天然生ゴムの材質を常温での弾力性、復元力、また低温下での硬化、脆性を材質的に改良している。 グッドイヤはこの特許を取得し、米国、欧州に販売を行ったが、生前には認められず、貧困に追われ失意の内、家族とも別れ、逝去することになる。