メイン | 2006年06月 »

2006年05月30日

スイフト ( Jonathean Swift 1667-1745 アイルランド )

 スイフトはアイルランドのDublinで生まれが、スイフトが生まれる7ヶ月前にに亡くなり、母は生活困窮のためスイフトを保母に預け、スイフトのもとを離れます。 スイフトは経済的に裕福な義兄弟Uncle-Godwinのもとで、Kilkenny Grammar School (1674-1682)、Trinity College in Dublin(1682-1689)で学ぶ。 

スイフトは成績は良くなかったが、頑固な性格な学生であった。 スイフトが生まれた時代は、1664年のペストの大流行、1666年のロンドンの大火、アイルランドでの1688年の反カトリック宗教革命と多難な世情であった。 スイフトは生涯、聖職にあり、アイルランドとイングランドの間を行きつ戻りつしていた。 

スイフトには数多くの詩また散文が残されているが、その一つに恋人Eather Vanhomerighの愛称Vanessaで綴った詩「Cadenus and Vanessa」の著作があり、スイフトは実際に結婚した Esther Johnson、愛称stellaとは早く死に別れたが、いつまでもstellaの髪を肌身離さず持っていたようです。 

スイフトは若い時からMeniere’s 病、Alzheimer’s病に苦しんでおり20歳代から耳が聞こえなかったようで、また生まれた幼少の頃の暗い影も無く、心の優しいスイフトが、今でも若い少年少女に愛読されている「ガリバー旅行記( Gulliver’s Travels )」を著作した事が解るような気がします。 この著作は、スイフトがSt. Patrick’s Cathedral に1713-1742に勤めていた時の1726年に出版されました。 

この著作は4部構成になっており、少年少女向けの本とされていますが、その時代の風刺小説で第1部「小人が住む島( Lilliputian )」では人間社会の自尊と空虚を、第2部「大人が住む島( Brobdingnag )」では取るに足りないこの有害、空しい人間社会を、第3部「空を飛ぶ島( Glubbdubdrib )」では何の有益な利用もされない人間社会の科学を、第4部「Yahooの島( Houyhnhnms )」では人間社会が神の御心に従わず自ら存亡する事を、全体を通して人間社会の廃退が理に適っているとしている。 同じ時代に書かれたDefoeの「ロビンソン・クルソー1719年」が楽観的( Optimist )に対してSwiftの「ガリバー旅行記 1726 年」は悲観的( Pessimism )な航海物語になっている。

因みに、パソコンの検索サイト、「Yahoo」はこの著作の第4部「Yahooの島( Houyhnhnms )」から名づけられたと言われておりますが、今では日常用語として若者の間では「ならず者」を指して「Yahoo」と呼ぶようである。 一方、「Google」は米国の数学者Edward Kasner(1878-1778)と9歳の甥Milton Sirottaの会話の中で大きい数を何と呼ぼうと尋ねたら、「Googol」というのはどう? ということで、無限に近い数を「Googol」=10の100乗を単位とした。 ちなみに「Googol」=10の100乗の数は全宇宙にある原子の数より多い数で、「Google」は「Googol」の造語で、無限の情報が取り出せる事を意味している。

シュタール( Georg Ernst Stahl 1660 – 1734 ドイツ)

シュタールはドイツのAnspachで生まれた。 1683年にJena 大学の医学部を卒業し、1687年にDuke Johann Ernst of Sachsen Weimar の宮廷医師となる。 1694年から1716年までHalle大学の医学部教授の職に就く。 またBerlinに居城を構える、KingFriedrich Wilhelm I of Prussiaのお抱えの医師となる。

 化学者としては、フロギストン説の提唱者で燃焼化学の歴史の中で重要な一歩を築き、後世に名を残す。 フロギストン説は同じドイツの化学者ベッヘル( Johann Becher 1635 – 1682 ) が燃焼という現象は「何かが逃げていく」と考えていた。 それを受けてシュタールは、その「何か」をフロギストン ( phlogiston )「ギリシャ語で火の精霊」と抽象的でなく、正しいかまた正しくないかは別にして、1703年に強く提唱したことは、次の燃焼化学のステップ( milrstone )として重要な意義を持つ。

 物が燃焼する事を、我々は日常目の当たりにするが、観察(実証)の結果、炭に例えるなら、燃焼の結果、我々は白い灰になったと考えるが、シュタールは炭が燃えたのではなく、炭に含まれていたフロギストン なる物が熱により失せたとシュタールは科学者としての頭で考えた。

何故なら、炭ばかりでなく、木も、石炭も、紙も同じような現象が観察されるからで、そこに一般性を見出そうとした。 また別の例なら、空気中でボールを、木の壁、コンクリートの壁に向って投げると穴が無い限り、必ず手前に戻って来る。 我々は簡単に壁が有るから戻って来たと考えるが、科学者は、そのように考えずに、空気と壁の材質のインピーダンスの差が有るからという一般性を与えて説明する。 シュタールのフロギストン説は大化学者ラヴォアジェ( Antoine Laurent Lavoisier フランス)が1776年に「新燃焼理論」を確立するまで、この説は、シュタールの著書、1697年「Zymotechnia fundamentalis sive fermentalionis theoria generalis」に系統的、体系的に秩序立って説明されたので、18世紀の科学者からはほぼ1世紀に亘って歓迎された。

デフォー( Daniel Defoe 1660-1731 イギリス 貿易商、小説家 ) 

デフォーはLondonで生まれ、最初、寄宿学校に入り、その後Morton Academyに進ん
だ。 デフォーの家系は非国教徒の長老派プロテスタントであったため、イギリス国教会への宣誓をしない限りOxfordあるいはCambridge大学への入学は出来なかった。
 
デフォーは父親から牧師になることを勧めれたが、その道を選ばず、1683年頃の23歳までにそれなりの貿易商になった。 その時点では小説家になることは考えていなかった。 その後、Duke of Monmouthの軍に入り、James II世から王位を奪うことを考えたが、反乱は失敗に終わり、デフォーとそのグループは大陸での半ば逃亡を3年程強いられたが、その間JamesII世に対する批判のビラを配り続けたが成就しなかった。 

その後、また元の貿易商に戻ったが、1692年に倒産した。 そして転機が訪れ、もともと文才が有ったので、1701年に「 the True-Born Englishman 」という詩を著し、大変好評であった。 1719年に現在でも少年少女に愛読されている「ロビンソン・クルソー( Roinson Curusoe)」の著作をを残す。 ロビンソン・クルソーは実在の人物で、たまたまイギリスの航海士で海図作成者のWilliam Dampier ( 1652-1715 )に救出されたAlexandr Selkirkという船乗りでカリブ海で遭難し27年間、絶海の孤島での一人暮らしを強いられた物語である。

エドモンド・ハレー ( Edond Halley 又は Edmunnd Halley 1656 - 1742イギリス)

エドモンド・ハレーはHaggerston of Londonの裕福な石鹸製造業者の家庭に生まれる。 St Paul’s Schoolに学び、1673年にthe Queen’s College Oxfordに入学する。 卒業後、1676年に南半球の恒星を観察するために大西洋に浮かぶ孤島、St.Helenaに2年間滞在する。 Tycho Brahe( 1546 – 1601 デンマークの天文学者 )の星座標に、新しく341の恒星を書き加え、1679年にCatalogus Stellarum Australiumとして刊行する。 エドモンド・ハレーはRoyal Societyの会員に選ばれる。 
余談になりますが、イギリス領St.Helena島、当時は絶海の孤島で、大西洋、西アフリカ沖合い2000キロにあり、ワーテルローの戦( the Battle of Waterloo )いで破れたナポレオン( the Emperor Napoleon Bonaperte)が1815年流刑され、亡くなった島として知られている。 

1686年に、南大西洋の航海時に観測したデータをもとに、貿易風( trade winds )とモンスーン ( monnsoons )について、また気圧( barometric pressure )と海抜 ( height above sea level )の関係についても論文を発表している。  天文学者であったエドモンド・ハレーは、人生の多くを月の観測に費やし、重力、惑星の動き、特にKepler’slawsの仮説の証明に注力し、1684年に友人のIsaac Newtonに会うためCambridge大学を訪ね議論をする。 

Isaac Newtonは、既にKepler’slawsの仮説を数学的に証明済みで、その事を知ったエドモンド・ハレーは世に問うことを進言し、後に1687年に後世に残り、多大な影響を与える「 the Principia Mathematica Phirosophiae Naturalis 」を刊行する。 それに掛かる費用はエドモンド・ハレーが援助した。

 1698年から、Paramore号の艦長として、北緯52度から南緯52度の大西洋海域の地球磁場( terrestrial magnetism )を測定し、「 General Chart of the Variation of the Compass 」として著らわす。 そこで、地球磁場の北と地軸の北の間に傾き(偏角)の有る事を確認する。 この傾きをisogonicまたは Halleyan linesと呼称されている。 地球磁場は現在でも研究課題であるが、概ね、地球内部のマントルの対流に起因する電流(電子)の流れと地球の自転により磁場が発生していると考えるマントル対流(ダイナモ)説が支持されてるいる。 

また25000年ごとに北をさすN極と南をさすS極が反転することなど理解できないこと等も多々ある。 また、この狭い日本の国土でもHalleyan lines(偏角)は、北の北海道では10度、南の九州で6度と差がある。 現在、地球表面積の29%を占める5大陸も、海と陸地が作られた頃は現在我々が見る世界地図とは大きくことなり、マントルの対流により陸地が移動して現在のような形状および配置となっている。 ウエーゲナー( Alfred Wegener 1880 – 1930 )が唱えたプレート・テクニクス(大陸移動説)である。 実際、世界地図の南アメリカの東側とアフリカの西側をはさみで切り合わせるとほぼ同じ形状で当てはまる。 山口県の秋吉台のカルスト大地も珊瑚礁で、遠くフィリピンの方から移動してきたものと思われます。

 1703年に、エドモンド・ハレーはOxford 大学の地理学の第4代サビリア教授となる。 サビリア教授( Savilian professor )のサビリアとは、1619年にOxford 大学のSir Henry Savile ( 1549 – 1622 )が地理学( Geometry )と天文学( Astronomy )に限って設立したもので、その席についた地理学の初代は、Hnery Briggsで、天文学の初代は、John Bainbridgeで現在もその歴史は守られている。 また数学にも同じような席としてグレゴリ教授なるものがあり、1659年にEdinburgh 大学のDavid Gregory ( 1638 – 1675 )が設立した。

 最後に、エドモンド・ハレーの名を後世に残したのは、ハレー彗星を発見した事である。 エドモンド・ハレーは歴史書から、1456、1531、1607と1682年に現れた尾を引く星(彗星)が同じ彗星ではないかと考え、周期を計算し、今度地球に接近するのは1758年としましたがエドモンド・ハレー自身は1742年に亡くなっているので残念ながら見る事は出来ませんでしたが、実際に予言通り1758年に現れました。 ハレー彗星は太陽系の惑星以外で、固定周期を持って迂回してくる彗星(planet)の事で、周期は76年とされている。 

私の家でも 1986年に見ましたが、地球への接近度が僅かでしたので、天空に燦然と輝く尾を引くハレー彗星を期待し、望遠鏡まで用意して待っていたのですが、小さく輝きもなく大変残念でした。 また、史実を記した歴史書に見られるハレー彗星の周期は、摂動( 太陽また惑星の重力の影響により周期が変動する )により75 - 79年ですが、240年から紀元後1696年までは22回現れ平均77.1年です。

 その後、私たちが見た1986年までは7回現れ平均75.6年で、2134年に現れるまでは73年とされ、段々迂回周期が短くなるような気がします。 実際、長い期間、ハレー彗星は星屑を撒き散らしているのでいつかは無くなるのでしょうが、天文の事に無学な私が心配する事ではないかとは思いますが?
 
エドモンド・ハレーは1742年に亡くなり、ロンドンの南西St. Margaret’s Church に埋葬されている。

2006年05月28日

チイコ・ブラーエ ( Tycho Brahe 1546 – 1601 デンマーク )

チイコ・ブラーエは現在のスウエーデン( 1658年迄はデンマーク領 )、スカンデイナヴィア半島の南端のスコーネ( Skane )の高貴な家柄に生まれる。 中世デンマークはカルマル同盟( 現在の漁港:スウエーデンのKalmar slottで1397年に締結された )のもと、デンマーク、スウエーデンおよびノルウエーが共同体で大国として存在していたが、1523年にスウエーデンがこのカルマル同盟を離脱し、スウエーデンとの300年に亘る抗争が続いた時代背景の中であった。 現在のデンマークの首都コペンハーゲン( Copenhagen )はシュラン島( Sjaelland Island )に位置しますが、思い出されるのは8 - 11世紀に活躍したヴァイキング( Viking : 北の人 )と文豪シェクスピア( William Shakespeare )の著作ハムレット( Hamlet )の舞台となったエルシノア ( Elsinore )城( クロンボー城Kronborg Slot がモデルとされる)があることでも知られています。

チイコ・ブラーエは9歳でラテン語を学び、1959年、13歳でCopenhagen大学に入学し伯父の勧めもあり、法学および哲学を専攻し法律家になるべく勉強をする。 チイコ・ブラーエは大学で、いろいろと広く学ぶ内に、錬金術また天文学に興味を抱くようになる。 この時、チイコ・ブラーエの将来の方向を決定付ける出来事、太陽の部分日食( a partial eclipse of the sun )が1560年8月21日に起きる。 またこの部分日食はこの日に起きることが予測されており、それが実際に起きた事は、果敢な年頃のチイコ・ブラーエにとっては衝撃的で、これで天文学への道を選ぶ事になる。 チイコ・ブラーエはお金には不自由が無かった事、またラテン語を学んでいた事も幸いし、直ちにプトレマイオス著作の「アルマゲスト」Ptolemy’s Almagest(ラテン語で書かれた書物 Megale Syntaxis )を買い求める。 

Almagestには、惑星の年運行の暦( astronomical tables )が掲載されており、それはスペインのトレド( Toledo : Madridの南70km )で1252年にCastile( スペイン中央部 )の王でありまた天文学者のAlfonso X ( 1221 – 1284 )の元に50人にも及ぶ天文学者が集まり作製されたもので、Alfonsine tablesと呼ばれたいた。 Alfonso Xはヨーロッパ・キリスト教国にギリシャおよび東方オリエントから流れ込む膨大な学問書のラテン語への翻訳を専門に行う学校を設立した事でも知られる。 またチイコ・ブラーエは同時にコペルニクスの理論( Copernicus’theory )に基づいた最新の惑星の年運行の暦も買い求めた。

チイコ・ブラーエが生きた16世紀から17世紀の天文学者は大雑把に列記すると、
 Nicolaus Copernicus 1473 – 1543
Tycho Brahe 1546 – 1601
Galileo Galilei 1564 – 1642
Johannes Kepler 1571 – 1630
Jeremiah Horrocks 1619 – 1641
Sir Isaac Newton 1642 – 1727
 Edmond Halley 1656 – 1742

その後、ドイツ各地を旅し、さらにWittenberg、Rostock、Basel大学で学ぶ。 チイコ・ブラーエが20歳、ドイツのRostock大学で学んでいた頃、1566年に大学の教授の家でのクリスマスのパーテイで酒に酔い、学友のManderup Parsbjergとの口論の末、鼻の一部をだんびら( 広幅の刀:braoadswords )で削ぎ落とされ、生涯、その部分に銅製の義鼻を嵌めていた。 

チイコ・ブラーエは1570年にデンマークに戻り、1572年にカシオペア星団( the constellation Casisiopeia )に非常に明るい星を観測する。 この星は、他の星と違い幾晩、観測していても視差が変らないことから、かなり遠い所に位置する星であると推測する。 翌年に、この新しい星( new star )を小雑誌に( De Stella Nova )として刊行される。 現在ではSN 1572の名を持つ超新星( supernova )として登録されている。 この1572年の超新星の発見と1577年の彗星( 地球、月、惑星は時計周り、東から西に運行しているが)の逆行現象と強固と思われていた天球を通り過ぎて行く運行の発見が、チイコ・ブラーエに生涯、天文学者として生きていく確固とした信念を抱かせた。 

これ等を記述したDe Stella Novaを読んだデンマーク王( the King Frederick II )は、チイコ・ブラーエに、バルト海から北海に抜けるシュラン島とスカンデイナヴィア半島に挟まれた狭いカテガット海峡( the Kattegat strait またはsound ) に浮かぶ ヘブン( Hven )島を贈られ、その地にチイコ・ブラーエ自身が設計した天文観測所および実験室( Uranienborg : the Castle of the Heavens )をドイツの建築家が建設する。 天体観測用の測定器も、それに伴う度盛りも自身で行った。 チイコ・ブラーエは「観測は正確を期さないといけない」という信念のもと、まだ望遠鏡( telescope : ガリレオは望遠鏡での観測 )が無い時代で、肉眼では不可能と思われる微小視差で測定し、それは勤勉と忍耐のいる迂路であった。 

その後、デンマーク王は( the King Christian IV )に代わり、不運にもチイコ・ブラーエとは相性が悪く、測定装置また資料共々、1599年にボヘミアのPrague( 現在のチェコの首都 )に移住する。 幸いにして神聖ローマ法王ルドルフ2世( the Holy Roman Empeeror )の援助を受け、観測は続けられる事になる。 

積年のデータは膨大な量で、これをベースに新しい太陽系の理論を構築したく優秀な助士を探していた折、ケプラー( Johannes Kepler )に出会った。  チイコ・ブラーエは天空で常に位置を移動する惑星と常に天空で位置を変えない不動の恒星「天球に貼りついた」との二分論( dichotomy )の説明がつかず、恒星という天球の中心に地球が位置し、地球の周りを太陽が回り、太陽の周りを惑星、水星( Mercury )、金星( Venus )、火星( Mars )、木星( Jupiter )、土星( Saturn )が回っているという宇宙論を提唱し17世紀前半は受け入れられていた。  チイコ・ブラーエの宇宙論はAristotelian physics systemと1543年にCopernicusの提唱した太陽中心の惑星理論( the heliocentric planetary system )の折衷案であった。

余談になりますが、私は天文学者ではないので、外野から考えると、これほど天動説と地動説のいずれが正しいかの判断がつかなかったのは、地球には自転に伴う昼夜があり、昼間、惑星を含めた星の観測が出来ない事かと思います。 ほぼ無限の広がりを持つ宇宙の中では、太陽も地球も固定点で、問題はただ太陽と地球のどちらがどちらの周りをを回っているだけの事で、それが問題なのですが、私たちが生活している地球は確かに実感として太陽が地球の周りを回っている印象は否めない。  

しかし、アリスタルコス( BC310 – BC230 Aristarchus は地動説を唱えていた)が考えていたように、問題は取るに足りない質量の地球の周りを、巨大な質量の太陽が回っているか、また巨大な質量の太陽の周りを微々たる質量の地球が回っているかを考えた場合、Newtonの万有引力理論を待つまでも無く判断出来そうですが?  人間はもともと蒙拙く、思索「理性」が感性「感覚」(今、目の前で起きている事実)を越える事が出来ない動物である事は確かである。 地球が丸い球体であることも、感性の枠を越えるもので思索では理解し難い。 なぜなら今、生活している地球の裏側の世界は、人は逆さになっているのかと問われたら、巨視的にはまさしく逆さである。 巨大な地球の質量によりただ引かれているだけで、人は自分の脚で立っているのではないのです。 この事象も、思索が感性( 今、目の前で起きている事実 )を越える事が通俗な我々にはなかなか出来ない。 思索が感性を越えられ、180度の豹変が可能な者が世に言う天才と思われる。

チェコのプラハPrague に居を構えた2年後の1601年、チイコ・ブラーエは志し半ばにして亡くなり、ケプラーはチイコ・ブラーエの25年間のデータを引き継ぎ、後の「惑星の第一、第二、第三の運行法則」を発見することになり、チイコ・ブラーエの観測データは無駄ではなく、大いに貢献するものであった。 チイコ・ブラーエは実に偉大である。 後世の若い人達がケプラーは知っているがチイコ・ブラーエを知らないのは実に残念である。

チイコ・ブラーエの遺作としては以下が知られている。
「 De Nova at Nullius Aevi Memoria Prius Visa Stella : 新星の出現 」in 1573
「 De Mundi Aetherei Recentioribus Phaenomenis : 天界の新現象 」in 1588
「 Astronomiae Instauratae Mechanica : 天文学の観測装置 」in 1598
「 Astronomiae Instauratae Progymnasmata : 天文学入門 」in 1602

チイコ・ブラーエの死因は、毒殺説もあるが、宴会好きで酒による泌尿器官の治療薬に含まれる水銀中毒説とされている。 後にチイコ・ブラーエの髪の毛から水銀が多量に含まれていた事が確認されている。

ギルバート ( William Gilbert 1540 – 1603 イギリス )

ギルバートはColchester、Essex、Englandに生まれた。 1588年にSt.John’s College、Cambridgeで学び、1570年代にLondonで医学の修業を積み、医学の面で中世西欧の医学の第一人者であった。 1600年にRoyal College of Physiciansの学長となり、Queen Elizabeth 1世が1603年に亡くなるまでの従医を勤め、後もKing James Iに仕えたが、同年、ギルバートは疫病のペスト により、他界することになる。 

ギルバート が生前に残し研究資料、器具類他は母校のRoyal College of Physiciansに移管されたが、残念なことに1666年に起きたLondonの大火で消失することになる。 医者としての多忙の中、余暇( his spare time )に「電磁気学」の基礎を築いた偉人であった。

ギルバートが不思議に思い、思索した事は、琥珀が物を引き付ける力(静電荷)と磁石が物を引き付ける力(磁力)の違いは何かということです。 古代哲学者ターレスも琥珀電気( amber electricity )の事は知見しておりました。 琥珀の( amber )は俗名で、学名は ( succinite )です。 琥珀は、古代ギリシャ人(紀元前600年頃)が装飾品として用いており、着けている内に汚れてきて、拭けば拭くほど汚れがひどくなります。 この汚れ(埃)を引き付ける力、琥珀効果( amber effects )の事を不思議に思っていました。 

この現象が静電荷によるものと理解されるようになったのは16世紀になってからです。 一方、静電荷に対して磁石( agencia の石 )の磁力についての知識はさらに古代の紀元前3000年の頃から多くの人々の間にあったようです。
 
また磁石を現在のようにmagnetics と呼ぶようになったことについては、伝承として二つの説があり、一つは小アジアの羊飼いの少年の名前マグメシアとする説と、一つは磁石の産地ギリシャ北方のマケドニアのマグネシア地方で算出した事による説の由来があります。 

ギルバートはいずれの力も物を引きつけるという、現在では静電荷と磁力と呼ばれているこの二つの力の違いを明らかにするために、磁鉄鉱(lodestone、magnetic iron ore)の特性について、17年間で知り得た知識はDe Magnete ( theMagnet ) として1600年に著作されました。 この著書は当時の天文学者、Johannes Kepler、Galileo等に大いに興味をもたれ、かつ西欧中に磁気と電気の現象を解明する科学者の成書として大きく貢献しました。 

ギルバートはその著書「De Magnete」の中で琥珀を毛皮で摩擦すると静電気が起こることは、かなり古くからわかっていましたが、ギルバートは摩擦による帯電(電荷)現象は琥珀に限らないこと、また琥珀以外にも帯電(電荷)する物のあることを発見しました。 また磁石には極性があり磁石の極性が地球の極性と深いつながりがあるとの仮説を立て、実際の地球に見立てた小さな地球を実験室に作り、実際の地球と同じ磁界が存在していること、地球は24時間で一周するが、それに伴い、地球を覆う磁界も一周すること、また熱を加えていくと磁性現象が消えることを発見しました。 

これらの現象を現在の自然科学探求のための実験と同じ手法で実証づけた最初の科学者でした。 なんと云ってもギルバートの最大の功績はDe Magnete ( theMagnet )に書かれているように磁気と静電気「琥珀の物を引きつける現象(amber effect)」を明確に区別しており、完全な磁気現象学を発展させ確固なものとして基礎を築き上げた点かと思われます。 琥珀はギリシャ語でelectronと呼ばれ、電気をelectronと命名したのはギルバートです。 

ギルバートが生きた時代は後期ルネッサンス期で、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランにより、大航海時代が終わり、コペルニクスの「天球の回転」の著作が出版され、天文学者、Johannes Kepler、Galileoが現れた同時代の科学者で、地球、自然が科学的に明らかになり、そして世界は大航海時代に入っており、航海の安全を非常な正確さで約束する磁石「羅針盤(compass)の磁針として」は航海装置の数少ない道具としての役目を果たした事は大変大きな成果と云わざるをえません。 

余談になりますが、琥珀は日本では岩手県の久慈鉱山で採掘される琥珀が有名ですが、鉱物ではなく樹枝液が長い年下(中生代白亜紀約9000万年前)を掛けてノジュール(団塊)状堆積岩となったものです。 さらなる余談になりますが、日本の国歌「君が代」は10世紀初頭に編纂された勅撰和歌集「古今和歌集」の詠み人知らずの雅歌で、さざれ石の巌をとなりてのくだりも、人によっては岐阜県に多く産するさざれ石という人もいますが、「さざれ石のみが巌をとなるのでなく」、私は石がさざれて(風化)いき長い年月をかけて巌をとなると解しています。 今では子供たちも知っている水成岩、深成岩の成り立ちかとも思います。 またある某紙に岐阜県に行けば「さざれ石」を見られるような記事が掲載されておりましたが、なにも岐阜県まで行かなくとも文部省の中庭に置かれており誰でも見学できます。

ジョン・ネーピア ( John Napier 1534 – 1617 イギリス 数学者、科学者 )

1614年に最初の対数表を作成する。 ネーピアは エジンバラ( Edinburgh、England )で生まれる。 幼少の頃の事は知られていない。 13歳でセントアンドリュース大学で宗教学を学ぶ。 ネーピアは生来、厳格なプロテスタントであった。 ネーピア自身にとって最も大切な業績は1593年に著作した 「 the Plaine Discovery of the Whole Revelation of St. John 」聖書の黙示録である。

ネーピアはセントアンドリュース大学で数学を学んだが、むしろ興味があったのは、イタリア、ネーデルランド、ヨーロッパ各地を訪ね古典文学に触れる事にあった。 ネーピアは数学を自身の趣味として身に
つけた。 ネーピアの対数( logarithms ) の研究はGartness、Edinburgh北西の片田舎で過ごした時に執筆された。 ネーピアのラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」は1614年に出版され、2年後の1616年にEdward Wrightによって英訳された。 この偉大な発見「logarithms 」の背景また思索の過程については、ネーピア自身の序文に書かれている。 

ネーピアは1617年に一生を終えるが、この「logarithms 」について、当時 the Gresham College 、London ( 25年後に the royal society の誕生の地)で幾何学の教授をしていた ヘンリ・ブリッグス ( Henry Briggs )は天文学に興味を持っており、天文学における軌道計算のための、科学者の無味乾燥な無駄な膨大な計算に、この「logarithms 」が救世主として大きな役割をなすことを見抜いていた。 
 
ブリッグスは1614年にラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」を読みに強い衝撃を受けたが、ブリッグス自身も独立に対数を見出しており、1602年に「 A Table to find the Height of the Pole 」をまた1610年に「 the Tables for the improvement ofNavigation 」を著していた。

ブリッグスは1615年、1616年と2度、London からネーピアが住むEdinburgh まで、今では汽車で4時間の所を、馬車で4日掛けて訪問している。 1度目の訪問の時にはブリッグスはネーピアの家に1ヶ月滞在し、議論したことは対数の「底」の問題で、Log1 = 0 でなく、Log10 = 1に改めるべきではないかに集中した。 

ネーピア死後の1617年にLondonでブリッグスは「 Logarith morum Cilias Prima 」を著し、また1624年に「 mathematical Treatise Arithmetica Logarithmica 」を著した。 ブリッグスは1620年にユークリッドの「原典」( the Elements )の英訳解説書6巻を Oxford出版社から刊行している。 

このネーピアの対数はケプラーの惑星軌道計算、ニュートンの万有引力の法則の発見に大きな貢献をした。 200年後のラプラスもこのネーピアのラテン語の著作「 Mirifici logarithmorum canonis descriptio 」を数学史に残る金字塔と賞賛している。

コペルニクス ( Nicolaus Copernicus 1473-1543 ポーランド )

コペルニクスはPolamdのThornで裕福な銅販売業者の家庭に生まれ、自国の最高のクラクフ( Krakow )大学で数学、哲学、天文学を学んだ。 さらに1496年から都合2回、6年間、ボローニア(Bologna)大学でアリスタルコス( Aristarcus )の唱えた地動説(太陽中心説)を知り、またPadua大学で医学を、そして Ferrara 大学で法律を学ぶ。 その後、故郷のPolandに戻って聖職(canon)についたが、フラウエンブルク( Frauenburg )教会に付属する天文台で天体を観測しているうちに、永い間暖めてきた天文学の研究に心が動かされたいった。 

それまではプトレマイオスの天球論「アルマゲスト」が天文学を支配していた。 天球( the celestial sphere )とは、金魚鉢のように丸い球面を考え、一番上界、恒星が位置する不動の恒星天球を想定し、その下界に太陽、地球、月、他の惑星などの天球を与えた。 恒星天球では星座は球面に貼り付けられており、星座は天球ごと回転するが、星座を構成する星はお互いの位置を保つ、すなわちあまりにも遠くに有る為、恒星の年周視差があまりにも小さく観測できない。 

地球からの惑星を観測すると惑星の動きは一様でなく不規則で、この惑星のふらつき(惑う)、特に地球の内側を動く水星と金星などの惑星が順行( direct or prograde )したり、逆行( retrograde )したりする。これを説明するためにプトレマイオスは、アポロニウス( Apollonius Pergaeus B.C.225頃 - ? )の考えた周転円( epicycles 地球を中心とした円軌道上の一点に中心を持つ小円)を導入する。 これにより惑星が順行したり、逆行したりする事を説明した。

また惑星は恒星天球上を時には早く、時には遅く運行する。 これを説明するためにプトレマイオスは、離心円( eccentric circle 地球から離れた位置に惑星の円運動の中心とする大円)を導入する。 これにより惑星の動きを天球界に投影した動きは説明できるとした。  こうした周転円と離心円なる複雑な仮定を導入し長年かけた観測データをもとに惑星の運行を予測した。

コペルニクスは挑戦したのである。 今まで2000年間支配してきた「天動説」から「地動説」への180°の豹変( 世に言われるコペルニクス的転回:Kopernikanische Wendung )は天才には理解する余地が残されていたとしても世俗凡人には、教会という世俗の宗教上のモラルを心底から覆すことであり、また日常の生活で朝、日が昇り、夜、日が沈むという事実は、「天動説」が「地動説」より感覚的受け入れやすい常識( common sence )となっていた。

しかし、コペルニクスはアリスタルコスの唱えた地動説(太陽中心説)を知ってはいたが、神がそれほどまでに複雑な事を創造するかと疑問に感じていた。 まだ地球の月以外に衛星を持つ惑星は、ガリレオによる木星の衛星の発見まで、知られておらず、もし月の周りを回っているように、地球も太陽の周りを回っているとする太陽中心説は、コペルニクスは完全理論者( perfectionist )であるがため大胆にはまた確認するまで早急には発表する事は出来なかった。

ただ、コペルニクス自信は、この「地動説,太陽中心説 sun-centered formulation of a heliocentric thery of the solar systems 」によれば、つぎの二つの事柄、すなわち惑星の逆行( Retrograde Motion )と惑星の明るさの変化( Varying Brightness of the Planetes )については明瞭に説明がついた。 前者については太陽の周りを回る惑星の円軌道の大きさが違うので地球から見た惑星は時は順行したり、逆行したりする。

また後者については地球から惑星の距離が離れた場合は太陽からの反射光が弱く、近づいた時は太陽からの反射光が強いため、惑星は明暗がある事も理解していた。 これらを纏めた地動説理論の綱要を1514年に「コメンタリオルス」( Comment-ariolus )という小冊子にしクラクフ地域の天文学研究者仲間に送る。 それから30年をかけ、世に「天文学の大改革 Copernicus De Revolutionibus orbium coelestium 」と呼ばれる、大書:天球回転論「 On the Revolutions of the Heavenly Spheres 」を書き下ろしたが、中世のスコラ哲学者との論争を避けるために、「コメンタリオルス」の発表から30年後の1543年に同郷の若き天文学者レテイクス( George Rheticus 1514-1574 )の出版への勧め、また知人の神学者オジアンダー( Andreas Osiander 1498-1552 )の助力により印刷が完了し、コペルニクスの死の直前に手元に届けられた。

この書には、ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦の際に1年の長さを365.2425日とした観測値が記されている。 また後の世にテイコ・ブラーエが「地動説」を否定したのはコペルニクスが恒星の年周視差を測定していない事が最大の理由であるが、恒星の年周視差は1838年にベッセル( Friedrich Wilhelm Bessel 1784 – 1846 )が発見するが、はくちょう座61番の年周視差が0.314秒でコペルニクスの時代には望遠鏡も無く基本的に測定不可能であった。

この著作は、次世紀に、Keplerの衛星の楕円軌道の発見、Galileiの運動の法則、Newtonの万有引力の法則の発見への道を開く事になる。

マキアヴェリ ( Niccolo Machiavelli 1469 – 1527 イタリア )

マキアヴェリ は フロレンス (Florene、Italy )で生まれ、大学にはいかず、父親の書斎で勉学する。 また生涯をイタリアのフロレンスで過ごす。 マキアヴェリは15世紀から16世紀にかけてルネッサンス期を、イタリアが小国分立状態のフロレンス、ヴェネチア、ミラノ、ナポリなどが勢力争いをしており、外国からは強大なスペイン、フランス、ドイツ等の大国の領土的野心の対象となり、内憂外患の大混乱の時代であった。 イタリア・ルネッサンスも一気に崩壊し、終焉を迎えようとしていた。 こうした時代に生まれたマキアヴェリ は 1498年から1512年まではイタリアの分立国家フロレンスの存亡かけた外交と軍事のために政庁書記官として半生を捧げ、職を辞してからの1513年から1527年まではフロレンスの南10kmに位置する父親の所領 クッシーナ(Cuccina ) で古典研究に没頭し、1513年に小論文「君主論」( the Prince )、1517年に「政略論」( the Discourses on Livy )を著す。 

マキアヴェリが前半生をイタリアの分立国家フロレンスのために政庁書記官として働いた見聞と経験を、また静かな人生の晩節を書斎で勉強した古代ローマの古典を研究をもとに書き上げた論文が「君主論」と「政略論」である。 マキアヴェリ は ルネッサンス期における多くの思索家の中では、最も輝いていたが、一面僅かに悲壮な人物であった。
 
「君主論」でマキアヴェリが述べていることは、一国を担う君主の国家意識の優柔不断さと危機感の欠如である。 国家の存亡の危機にあっては、政治目的の前においては道徳も宗教も一切意味をもたず、人間的倫理思考に甘えず無機質的(非人間的)政治思考に切りかえるべきであるとし、いわゆる後の世に「マキアヴェリズム」と呼ばれる近代政治学の祖となる名著となった。

「政略論」では古代ローマ共和制を引き合いに出し、広大な版図のローマ帝国が堕落・停滞・衰退しなかったのは、古代ローマ」の政治体制が共和制であった事が最善であったとしている。 どのような政治体制であろうが、常に民衆と貴族との間には意思の疎通があり、争いは絶えない事は歴史が示している。それゆえ古代ローマの政治体制では、調停役として民衆と貴族の間に護民官をおいた事、ローマ法の制定・厳格公平な執行をした事、また民衆の凶暴・愚醜を神の尊厳の元に鎮めさせる宗教を基調とした国家を作り上げた事としている。

生まれ故郷のクッシーナ ( Cuccina ) で清濁併せ呑む現実の政治から離れ,生きてきた半生を静かに振り返りながら、どのような思いでこの二つの論文「君主論」と「政略論」の著作にあたったか知る由もありませんが、マキアヴェリはフロレンスをこよなく愛していた事、マキアヴェリの死後、君主制のフロレンスが3年後に滅亡したことを考えると、マキアヴェリは真の「共和主義者」であったこと、また真の現実主義的政治理念「マキアヴェリズム」を抱いていた事が伺い知れる

ジョヴァンニ・ボッカッチオ( Giovanni Boccaccio 1313 – 1375 イタリア )

ボッカッチオの生地は不明確ではあるがイタリアの中央部トスカニ( Tuscany :イタリア・ルネサンスの発祥の地)のセルタルド( Certaldo は緑のオークの森で覆われた高地を意味する)に私生児として生まれ、トスカニのフローレンス( Florence )で育った。 母親の名も定かでない私生児として生まれたにも係わらず、性格は高貴で、著した作品からは中世騎士道的な、気高く、慎みが滲み出ている。 
 
主な著作としては
1341年に散文と詩が併記された「 Ameto 」
1342年に寓意的な詩「 Amorosa visione 」
1343年に「 Fiammetta 」
1343年に「 Ninfale fiesolano 」
1349年に後世に残る「 Decameron 」書き始め1352年に書き終える。
    
黒海のクリミア半島北方、現在のウクライナ( Ukraine )に7世紀から栄えたハザール王国が1243年に蒙古のキプチャク汗国に滅ぼされたが、一部がクリミア半島に残り、城壁を築いたカッファ(現:フェオドシアFeodosiya )の港町で盛んにジェノヴァ、ベネチアと海洋貿易を続けていた。 カッファの町では当時ユダヤ商人により持ち込まれたペスト(黒死病 Black death )が広まり、時同じくして、1346年にキプチャク汗国が再度攻め入った事により、その被災から海路を逃げ出した一部のユダヤ商人がコンスタンチンノーブル、シチリア、サルジニア、ジェノヴァと寄航し、ペスト菌が西欧へと拡大されていく。 このペストの感染域はヨーロッパ全域、西はイベリア半島、北はイギリス、スウーエデンまで広がり、一説には、ヨーロッパの全人口の1/3が減少し、社会に深刻な打撃を与えたと史実は伝えている。
 
ボッカッチオが住むフローレンス( Florence )も1348年にペスト病の大打撃を受け、1351年までの3年間に市民の3/4が亡くなったとされている。 1349年に書かれたデカメロン( Decameron :ギリシャ語のDécaは英語でTenを、hēméraはdayを意味し、十日物語とも言われる)は、このペスト病の蔓延する時に、3人の男と、7人の女が、邸宅に閉じこもり暇つぶしに10人が10日、一人1話、合わせて100話が綴られた散文である。 好色文学の祖とされるが、内容はそれ程のものではなく、ボッカッチオは聖職者の恋物語などを綴ってはいるが、この悲惨なペスト病で打ちひしがれた世間を勇気付ける所に主題を置いている。

ボッカッチオは1350年にフローレンスで、1351年にパウダでフランセスコ・ペトラルカ( Francesco Petrarca 1304 – 1374 )に会い、親交を結びまたペトラルカを師と仰ぎ、詩の創作に情熱を注ぐ事になる。 ボッカッチオはペトラルカの教えによりダンテの叙事詩「喜劇 ( La Commedia )」を大学で講義し、その素晴らしさを世に広めました。 またボッカッチオはこのダンテの喜劇 ( La Commedia )」を神聖なる書として「 神 Divina 」を付与し「 神曲 ( La Divina Commedia ) 」として後世に残ります。
     
ボッカッチオは45歳前後でギリシャ語を勉強し、試みとして、イリアス( Iliad )、オデユツセイア( Odyssey )で著名なホメ-ロス( Homer )、多作な悲劇をを書いた特にトロイの女( Trojan women )で著名な( エウリピデス( Euripides )、プラトンの教えを忠実に実行した教育者のアリストートル( Aristotle )等の著作を翻訳している。 またボッカッチオは1365年に住み慣れたフローレンスを離れ、ナポリ、ベニス、パウダと旅に出るが、1374年にパウダでペトラルカの訃報を知り、叙事詩「 the Rime 」を捧げる。 

ボッカッチオもペトラルカの死の翌年1375年に生まれ故郷のセルタルドで帰らぬ人となる。

マルコ・ポーロ( Marco Polo 1245 – 1323 イタリア )

マルコ・ポーロは父が貿易商を営む高貴な家系で、ダルマテア( Dalmatia )のクロツア( Curzola )島( 現在のクロアチア西岸アドリア海に浮かぶ )に生まれ、地中海貿易の中心的な拠点をなすベニス( Venice )で育った。 マルコ・ポーロは、当時としては普通の教育を受け、ラテン系の教会で「聖書」、「神学」を学ぶ。 幼少の頃は、「博物」の中でも植物、動物などに興味を持っていた。

マルコ・ポーロが6歳の時、父と伯父は第1回目の東方への旅、Cathay( China )に赴くが、ベニスに戻った時には15歳になっており、母親は既にこの世にはいなかった。 父と伯父は2年間はベニスに留まっていたが、その後、マルコ・ポーロを連れ3人で東方への旅をする事になる( 1271 – 1295 )。 東方への旅のルートはアルメニア( Armenia )、ペルシャ( Percia )、アフガニスタン( Afghanistan )、パミール( Pamirs )高原を越え、現在語られる絹の道 ( Silk road )を辿り中国へと向う。

一行は1275年に元の大都(現在の北京)に苦難の末、辿りつくが、一行に加わっていた2人のドミニコ修道士は恐怖のため途中で逃げ帰った。 元のフビライ・ハーン( Kublai Khan )は一行を歓迎し、特にフビライ・ハーンは若いマルコ・ポーロに礼をつくし、17年間、側近の外交官として重用した。 

1292年に帰国の途に付くが、陸路は大変なので、海路とし、泉州からマレー半島を迂回し、インド洋を海岸沿いにイランのイルハン( Il Kahn )朝を経て、1295年にベニスに帰還した。 帰国後1298年のベネチアとジェノヴァ( Genoa )との海戦で捕虜となり、( Genoese prison )で知り合った翻訳家のルステイケロ( Rustichello「アーサー王伝説」を翻訳 )がマルコ・ポーロの東方への旅に興味を示し、マルコ・ポーロが口述し、ルステイケロが筆記し1299年に著した書が「世界の記述 the Description of the World 」で日本では「 東方見聞録 」で知られている。

この書をジェノヴァ( Genoa )の船乗りコロンブス( Columbus )が熱読しており、その中で黄金の国、日本( 書物の中ではCipangu )に興味を持ち西回りでジパング( Zipangu )への大航海に乗り出す事になる。 また当時の人達から「 東方見聞録 」の内容が大言壮語であるためマルコ・ポーロは「嘘呼ばわり」されたが、自身は旅で見た事の半分も話していない「 I have only told the half of what I saw ! 」と語っている。 また帰国後はDonata Badoerと結婚し3人の娘に恵まれ、1324年70歳で他界するまで幸せな日々をベニスで過ごした。

ただ、この書は当時、貿易で行き来していた商人達の話を纏めたのではないかとの説もあり、根拠としては当然書かざるべき筈の事柄が無いこと、また当時の元の暦書、通史にはマルコ・ポーロの記述が無いことに不自然さがある事に拠っている。

トマス・アクイナス( Tomas Aquinas 1225 – 1274 イタリア )

アクイナスはイタリアのヌルシア( Nursia )のナポリ近くのロッカ・セッタ( Rocca secea )城で生まれる。 1231年、6歳から14歳まで、モンテ・カシーノ( Monte Cassino )山のベネデイクト修道院に預けられ、そこでの共同生活を送る。 モンテ・カシーノ山はローマの南130kmに位置し、ベネデイクト修道院はその標高520mの岩山の頂上に聳え立つ。 ベネデイクト修道院はベネデイクト( St.Benedictus 480 –543)がスピアコ( Subiaco )での3年間の山中での修業の後、隠遁生活で得た「戒律( Benedictine Rule )」の実践のために529年に設立した。

日本にも1952年に東京麻布に、また北海道-札幌の他、数箇所で布教を続けている。 アクイナスはベネデイクト修道院の「戒律」のもと13年間の厳しい共同生活を終え、1239年にナポリ大学で、倫理学、修辞学、算術、幾何学、語学、音楽、天文学という当時の教養7学科を修める。 ナポリ大学はボローニアのドミニコ会の修道士が設立した学校で「スコラ学」の殿堂であった。 アクイナスの苦悩はベネデイクト修道院の「戒律」とドミニコ会の「スコラ学」に挟まれた形となるが生涯を通じてドミニコ会での研究、著作また学生への講義に身を置いた。

ドミニコ会を設立した聖ドミニコはスペインのブルゴス県( Burgos )、カレルエガ村( Caleruega )で1170年に生まれる。 聖ドミニコの教義は「自己の全存在を、愛を持ってイエスに捧げ、イエスの意図する真理を探究、伝承」するとされる。 1215年フランスのツールーズ( Toulouse )にドミニコ会「説教者兄弟会」を設立した。

アクイナスは中世最大の神学者、哲学者で、パウロやアウグステイナスと並び「天使的聖人」とされ、短い49歳の飛天までに無数の本「注解」を著したが、何と言っても全精力を絞って著した「対異教徒大全( Summa Contra Gentiles )」と「神学大全( Summa Theological )」とは現在の百科辞典にも相当する大書である。 「神学大全」は3部からなり、1部の神( God )、2部のエチカ( Ethics:倫理 )、3部のキリスト( Christ )から成っており、「対異教徒大全」を踏み絵としてさらに洗練された著作に昇華している。 また「神学大全」の「大全」とは体系化を意味し、神学の「大全」と呼称される書は、他にもあるが、単に「神学大全」というとアクイナスのこの著作を指す。
 
アクイナスの著作は大きなアルキメデス哲学を底流としており、アルキメデス哲学をあらゆる角度から1500年に亘り継承するスコラ学を基調音としている。 スコラ学の発祥期は1000 – 1250年、隆盛期は1250 -1350年で、スコラ学は学校( Scolaticus )に由来し、ある特定の学をさすものではなく、ある学を論理的方法による学習する事を意味する。 その学が哲学であるならば「スコラ哲学」、神学であるならば「スコラ神学」と呼称し、それぞれの学をスコラ的に学ぶ事になる。
 
アクイナスは、「資料」と「形相」とを併せ持つ蒙なる人間が究極の「真理」という高見に達するためには、「神的な啓示」に拠る「神学」と「理性」に拠る「哲学」を必要とし、それ故、「神学」と「哲学」は切り離せないとものと考え、あくまで「信仰」の対象「神」の存在を証明する「神学」と「理性」の根拠となる「哲学」の融合、両立可能性に「命題」を置いている。 

アクイナスの大書「神学大全」は今では色褪せたものとされているが、17世紀のデカルト、18世紀のカント、19世紀のショーペンハウエル、ニイチェ等の近代哲学に至るまでは「聖書」と共に永きに亘り、思想史「神学、哲学」の架け橋としての大河であった。

アクイナスは1274年の第2リヨン公会議へ出席するために、ナポリからリヨンへ向ったが、その旅の途中で病を患い、アクイナスはドミニコ会の修道院での死を望んだが、ベネデイクト修道院のシトー派のサンタ・マリア修道院で亡くなる。 シトー派とはベネデイクト修道士会が1098年にサンタ・マリア修道院を、フランス・ワインの産地、ボルドー(Bourgogne)のシトー( Citeaux )村に建設した事に由来する。

ロジャー・ベーコン ( Roger Bacon 1214 – 1294 イギリス )

ロジャー・ベーコンはロンドンの西130kmコーンウオール( Cornwall )半島の付け根サマーセット( Somerset )州のヨーヴィル( Yeovil )の近くの村で生まれる。 生まれた時代背景は国王Johnの悪政の最中で、フランスとの度重なる戦争で大陸の領土を失い、また王侯貴族の戦費の負担も重なり、国王John(在位1199-1216)と貴族および宗教界(フランチェスコ派及びドミノコ派)との政治的争いが絶えなかった。 こうした状況に王侯貴族の不満に終止符を討ち、双方の歩み寄りの和解案として1215年にマグナ・カルタ(大憲章)を制定した。 それは国王Johnが亡くなる1年前で、その後、悪政、失政で名高い、国王Johnの息子、Henry III(1207年生まれ、在位1216-1272)が9歳で国王の座に就く。 注)マグナ・カルタは前文と63か条からなるが、その後、一部が修正されたが上手く機能せず、忘れられた存在となったが、イギリス憲法の底流には、前文と本状の一部が形骸化された形でイギリス憲法の成文として残された。

ロジャー・ベーコンは、こうした政情不安な時代の内に過ごす。 ロジャー・ベーコンはフランチェスコ派に属し神学、スコラ哲学を学ぶ修道士でした。 当時は、大陸のみならずイギリスにおいてもアリストテレス的哲学、科学は、フランチェスコ派、ドミノコ派、その他の修道会で発展してきた。 大陸ではトマス・イグアナス( 1225 – 1274 )が活躍していた。

ロジャー・ベーコンはオックスフォード大学、後にパリ大学で学び、アリストテレスの自然学を継承していた。  ロジャー・ベーコンは、もともとはスコラ哲学者で「抽象的な議論に抽象的な議論で論争する」学理的な学問の道を歩んでいたが、後にアラビア科学を学ぶ事により経験( empiricism )を重んじる経験主義者となった。 一方「資料」と「形相」の相互関係に近代的な科学的手法( scientific method )を導入し、イギリスにおける物理、科学の分野での先駆けとなった。 今日、「近代科学の父」とも、また、そのあらゆる分野に於ける知識の豊かさ、深さから当時の人達からは「奇跡的博士( Doctor Mirabilis )」とも呼ばれている。 

ロジャー・ベーコンは当時の哲学、数学、医学、神学、法学その他もろもろ分野の学問が、イスラムの世界から西欧に流れて来ていたので、語学の面でもラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を学び、過去に翻訳されていた学術書の間違いを数多く指摘している。

著作としては1267年に「大著作( Opus majus ) 」、「小著作( Opus minus )」と1268年に「第三著作( Opustertium )」を著した。 特に、大著作は1266年にクレメンス4世法皇の進言により、数学、物理学、哲学、論理学などを一纏めにした、今で言う百科事典的な大書を著した。 そのダイジェスト版が小著作で、後に追加として第三著作を残した。

ロジャー・ベーコンは現在の望遠鏡、顕微鏡、火薬、飛行機、自動車、汽船、潜水艦などを幻想しており、周辺科学が整わないので、想像の域を出ませんでしたが、直観力には優れており、未来社会に対する科学的な啓示にはただただ感心するのみです。 光学の研究などでは、後のニュートンの光の屈折理論には400年前にある程度近い線まで辿り着いていました。
 
ロジャー・ベーコンの晩年はフランチェスコ派内の揉め事(神学論争)で異端とされ1278年から14年間、パリで幽閉され、1292年に同郷の貴族の助力により解放されるが、2年後の1294年に亡くなる。

レオナルド・フィボナッチ ( Leonardo Fibonacci 1170 – 1250? イタリア )

フィボナッチの生地はイタリアのピサ( pisa )、生没年は定かではない。 フィボナッチが生まれ、育まれた12、13世紀のヨーロッパは、暗黒の中世と言われた蛮族からの襲来また国内の分裂から解き放たれ、社会的にも、政治的にも、文化的のも幾分の明るい兆しが見られ、農産物の増産、人口の増加、商業活動の活性化が進み、まもなく訪れる技術的、工業的、化学的な発展の足音が聞こえてきそうな気配の時代であった。 また、十字軍( Crusaders 1096 – 1290 )、好奇心に溢れ、外の世界に憧れる商業を営む人達による東方世界文明への接触が試された時代でもあった。 

フレデリック2世( 1194 – 1250 )は僅か2歳にして、1196年には、フランクフルト( Frankfurt am Main )でドイツの王位( King of the German )に就き、1212年にローマの王位( King of the Romans )、1220年から1250年まで神聖ローマ帝国の皇帝( Holly Roman Emperor在位:1220 – 1250 )、1198年から1250年までシシリーの王位( King of the Romans )に就く。 フレデリック2世はあらゆる分野の学問を奨励し、特に数学と科学には興味を示していた。 当然、フィボナッチの卓越した数学に興味を抱き、フィボナッチはフレデリック2世にピサで謁見している。

こうした状況の中、12世紀末までには、教皇と神聖ローマ法王とのいざこざも無くなり、多くの独立共和国が成立した。 中でも、ピサ共和国は小国ではあったが、海洋に漕ぎ出し商業国家としてまたキリスト教文化とイスラム文化の交流の上で重要な役割を演じる。 

フィボナッチの父親はピサで皮革の商いをし、またアルジェリア( Argeria )のブギア( Bugia )で税関使をしていた。 フィボナッチは父に随いて、幼い時から北アフリカのイスラム世界を旅をしていた。 父からは商売の仕方、計算の仕方を教わっていたが、フィボナッチ自身は、仕事の合間をぬってアラビア世界の代数学を独習していた。 

アルジェリアは北アフリカの( マグレブ Maghreb: 日の沈む、西方の)諸国 の一国で、現在でもバッグ、本の装丁に使われる原材料のなめし皮を加工し輸出している。 ピサ、フィレンツエ、アスコリ( Ascoli )にはバッグ、靴などの高級商品のメーカーがあり、イタリア中部の町、アスコリにはTom Tomの商品名で知られるバッグ・メーカーがあり、またアスコリと言えば、若い人にはサッカーの名門、1898年に創立されたアスコリ・カルチョ( Ascoli Calcio )、セリエBが活躍している事で知られている。

フィボナッチは30歳、1200年の頃、旅に終わりを告げ、今まで身に着けてきた代数学の著作を心掛けるようになる。 以下の著書を記述しています。
Liber Abbaci ( The Book of Calculation ) 1202 年
Practica Geometriae ( The Practice of Geometry ) 1220 年
Liber Quadratorum ( The book of Square Numbers ) 1225年
Flos ( The Flower ) 1225 年

私達の日常の生活に係わりのある書として、特にLiber Abbaci「そろばん(算盤)の書」が知られています。 15節の「整数の加法」に出てくる「うさぎの出生率」を話題として書かれている奇妙な数列(下記)は、その神秘性と広範な応用性から、後の世の17世紀のフランスの大数学者フェルマー( Pierre de Fermat )は整数論( number theory )として継承発展されていく事になる。
     1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144
何の代わり映もしない、この数列は「フィボナッチ数列」として知られている。 この数列の規則性は3項以降は、前の2つの項を加算した値となっている。 例えば、8は3と5を加算した値、89は34と55を加算した値となっている。 このように作られている数列の各項の並びは、いま一つの項、例えば、55を34で割ると、55/34 = 1.6176、また144を89で割ると、144/89= 1.6179、、、、、で限り無く( 1 + √5 )/2 = 1.618033989に近づいて行く( 収束 )。 この値の比率1 : 1.618033989は、名刺、ハガキ、コピー紙等の横と縦の比率で、ギリシャの時代から、美しい比率とされ、一般に黄金分割比として知られている。 ギリシャのパルテノンの神殿、楽器バイオリンの形状比なども例に漏れない。
 
この「フィボナッチ数列」1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144 の内2 3 5 8 13 は音楽の美しさの秘密とされ、ピアノのオクターブ( octave )は13音( notes )で構成され、また白鍵8音階( scales )と黒鍵5音階で構成され、特に黒鍵は2音と3音で構成されている。 それゆえ、ベートーベン、モーツアルト、ドッビシーの音楽に限らず、どの楽章の組み立てを分析してみても、全曲を通して、この「フィボナッチ数列」に基づく和音( chords )で構成されていると言います。

また、この「フィボナッチ数列」1 1 2 3 5 8 13 21 34 55 89 144は動植物の生体の成長にも当てはまり、ここで樹木の下から上へと伸びる状態を絵に描いて見て下さい。 地上からまず生えた木が最初2つに分かれたとします。 Yの字型になります。 木は土中から栄養と水を吸い上げて育ちますが、分かれた枝の両方に均等に分配する事はなく、左右どちらかに多く分配します。 仮に右の枝に多く分配をすると右側がYの字型に2本になり都合3本になります。 また暫く成長すると、左側がYの字型に2本になり、右側の2本の内どちらかが2本に枝分かれしますので、この段階で都合5本になります。 引き続き同じように枝分かれを続けると、8本になり、次の段階では13本になります。 この枝分かれの状態2 3 5 8 13 は紛れも無く「フィボナッチ数列」になっています。  植物の木ばかりでなく「松ぼっくり」の種子も「ひまわり」の花弁も、よく観察すると「フィボナッチ数列」になっているようです。 またフィリッピン海溝の深い所で生息する「オウム貝」も死んで、黒潮に乗り、鹿児島、宮崎辺りの海岸に流れ着きますが、この貝の成長も貝殻の大きくなる様子は、2 3 5 8 13 と「フィボナッチ数列」的に成長します。 同じような太さで成長はしないのです。

さらに、Liber Abbaci「そろばん(算盤)の書」の8節の「商品の相場」に出てくる理論も金融の相場では、「フィボナッチ数列」と「エリオット波動理論」の組み合わせは欠かせないものです。 相場の乱高下する場合、どこで押すか引くかする場合の判断に困った時には、前述の1.618から1.0を引いた0.618と1.0から0.618を引いた0.382の値が判断基準として用いられる。 相場の変動は「エリオット波動理論」によると「55日移動平均線」上を動き、相場の変動周期は55日の周期で変動するらしく、「売りは61.8%上昇した時に売り」それ以上、上がるとは考えずに見切りをつけ、「買いは38.2%下がった時に買い」それ以上、下がるとは考えずに見切りをつけるらしいです。 相場に係わるトレイダーは一つの目安にしているようです。 

「エリオット波動理論( the Elliott Wave Principle )」は米国のラルフ・ネルソン・エリオット( Ralph Nelson Elliott 1871 – 1948 )が1938年に発表した学説で、5波で上昇、3波で下落という8波が相場の周期という「フィボナッチ数列」に従うものです。

天文学者のコペルニクスが地動説を唱えた時に、プトレマイオスが持ち込んだ転周円を組み込んだ天動説をおかしいと直感で思った事は、神がそれほどまでに複雑な運動を創造するとは考えられないと。 「フィボナッチ数列」に従う、自然界もやはり見事と言う他に無い神の創りたもうたものと思われます。